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2011年8月 8日 (月)

大阪に模擬原爆

1945年(昭和20年)8月6日に、広島に、8月9日には、長崎に原子爆弾が投下され、多くの方々が亡くなられました。

米軍は、原爆投下前に、1万ポンド軽筒爆弾という爆弾を使い、実際に実地シュミレーションを行なっていました。(模擬爆弾で爆撃という演習)

広島に投下されたものは、高濃縮ウラン型で、長崎に投下されたものは、プルトニウム型、と違いはありましたが、長崎型のファットマンと同形状で、同質量(約4,8トン)の「パンプキン」と呼ばれていた、橙色に塗られた模擬原爆を使い、日本各地を爆撃していました。

500kg爆弾や、焼夷弾などの通常の爆弾より、かなり大きいので、投下装置を別装備された、B-29によって、日本各地に50発(1発は海上投棄)投下されました。

なぜ模擬爆弾が必要だったのかは、高度9千メートルで投下後に、原爆風と放射能から退避するために、150~155度の急旋回が必要とされていたので、乗員の訓練が必要だったのと、弾道の特性や、気象条件による慣性特性など、本番に向けての完熟データを取る必要があったからです。(高度何フィートで、火の玉になったら一番効果的だというデータがあって、高度・飛行速度・実際の投下までの手順や時間や、一番安全に退避できるかなど・・・)

前置きはこのくらいにして・・・

大阪にも、この模擬原爆が、投下されていました。

1945年7月26日 午前9時26分 大阪市東住吉区田邊本町 料亭金剛荘あたりに着弾・爆発しました・・・

この爆撃で、7名死亡、重軽傷者73名、倒壊家屋485戸、被災者1645人の被害が出ました。

東住吉区誌には、「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」とあり、投下して急反転したのではなく、反転して後に投下したとあります・・・

原爆投下候補地の京都市、広島市、新潟市、小倉市の中心部は、原爆の効果判定が出来なくなると言う理由で、爆撃はされることはありませんでした。

大阪に投下された模擬原爆は、元々は富山の軍需施設に投下される予定でしたが、天候不順により、各地に投下されたのです。 

あくまで想像の域ですが、その周辺都市は可(つまり機長判断でどこでも可)となっていたために、京阪神の施設を目標で飛行したものの、資料が無いために、見つけられず、帰りがけの駄賃とばかりに、市内平坦部に投下して行ったのではないでしょうか? (爆撃を禁じられていた都市中心部以外ならどこでもよかったんです)

この爆撃演習は、爆撃手による、目視が厳命されていたので、攻撃すべき目標物が確認されないと、その目標に投下することはできません。

田邊への爆撃は、機長判断で、町の中央部に投下したものが、たまたま田邊地区に着弾したということが考えられます (それらしき目標物も周辺には全くありませんし、どこかの目標を目指してしていたのなら、奈良県に行くことなく、とっとと投下して、急旋回するでしょうから)

現在、爆心地のそばに、模擬原爆の碑が御遺族の手で建てられています。

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色々な模擬原爆の記事が張られている掲示板と、道路反対側から見た碑の場所

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(最後の田辺小学校の被災状況の図は、以前に撮影のため、現在は掲示板にありません)

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パンプキン爆弾と、長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾(ファットマン・模型)(模型なので、レーダーのアンテナや、弾頭部の触発信管がありません)

ファットマン画像はウキペディアより

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B-29 と アメリカ空軍博物館の模型

B-29画像はウキペディアより 模型はネットより拝借させていただきました(すいません)

(B-29画像は、原爆投下用機ではなく、通常装備のものですが、尾翼マーク・テイルコードや、ビクターナンバーが無いので、軍が?、写真修正したものかもしれません)

(長崎原爆資料館にも原爆模型が展示されてあります)

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左は、田邊本町に模擬原爆が投下爆発した様子(下の四角いのが田辺小学校)

(円形の衝撃波と爆煙、それと爆煙の影が大きく見えてます・・・)

高高度からこんなの撮ってたんですね・・・ すごい技術力です・・・

(後続の観測機から撮影されたものです)

右は戦後、1948年11月撮影の航空写真の一部を、だいたいの縮尺を合わせて、切り取りしました・・ 3年後ですから、まだ爆心地あたりは、ほとんど何も建っていませんね・・

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長崎浦上地区の原爆投下前と投下後の画像です

どちらの画像もウキペディアより

大阪・田邊に落とされた原爆が、もし本当の原子爆弾だったら、大阪は壊滅していたでしょう・・・ 

模擬原爆だったとしても、あと1~2秒違っていたら、平野や、今川などの別の場所に落ちていたでしょう・・・

今回は、平野郷とは、あまり関係のない記事でしたが、平野郷も、大阪ですから、いいように解釈してください・・ 

┐(´д`)┌  ヤレヤレ

40年以上前に、ネコ三昧も、おじいさんから、田邊に1トン爆弾が料亭に落ちて、ようけ死んで、大きな穴が空いたと聞いてはいました・・・

まだ子供でしたから、その時は「ふ~ん」で終わりました・・・ケド

その頃はまだ、模擬爆弾の存在も世に知らされず、大きな爆弾=1トン爆弾と言われていました・・ (実際は5トンでしたが)

何でも、模擬原爆にも2種類あって、中のTNT火薬の量と、コンクリートなどの詰め物の量が違ったそうです・・・ 爆弾が落ちた周辺の家の屋根には、コンクリートの破片で、穴が開いたりする被害が多かったそうです。

また、昭和20年7月26日午前9時26分には、空襲警戒警報が出されていましたが、たった1機でしかも高高度ですから、なんや大したことあらへんとたかをくくっていたそうです・・・ (今回の津波被害といい、油断はいけませんね)

このころは、迎撃する航空機もほとんど無く、高射砲があっても、弾も無かったし、届かなかったのでしょうね・・・ (9000m上空やもん)

このあたりでは、生野のロート製薬のそばの公園や、大鉄デパート(今のあべの近鉄)、長居公園なんかにも高射砲陣地があったように聞いたことがあります・・・

ちなみに、何でパンプキン爆弾なんかと言うと、形が、かぼちゃのようにずんぐりとしていて、黄色っぽい色(テスト用だから)だということと、中身は種ばっかしで、食べられもしない、お化けかぼちゃのように、能無し・バカ爆弾という、敵に対する蔑視ような意味合いもあったんでしょうね

終わりに

多くの方々が、原爆をはじめ、戦争で亡くなられました

ご冥福をお祈りいたします

そして今回の地震・津波被害に遭われた方々も、一日も早い復興をお祈りします

こうして生かして頂いていることに、感謝いたします ありがとうございます 

記事内容が多いんで大阪に模擬原爆2に 

つづく

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