赤留比売命神社(あかるひめのみことじんじゃ)
平野公園の一角に鎮座されている、赤留比売命神社(あかるひめのみことじんじゃ)は、主祭神 阿加流比売神(あかるひめのかみ)をお祀りしている神社です。
現在は、杭全神社の境外末社となっていますが、かつては、住吉大社の末社でした。
赤留比売命神社
当社の祭神、赤留比売命は新羅(しらぎ)から来た女神で天之日矛(あめのひぼこ)の妻と伝える。
当地を開発した渡来氏族の氏神として、その創建は詳(つまびら)かではないが、平安時代につくられた延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に当社が記載されている。
俗に三十歩社(さんじゅうぶしゃ)と呼ばれるのは、古来から祈雨(きう)の神とされ、室町時代の応永年間(おうえいねんかん)に干ばつがあり、僧の覚証(かくしょう)が雨乞いのため、法華経(ほけきょう)三十部を読経し霊験を得た故事によるとか、当時の境内地の広さが三十歩であったによると伝える。
またかって住吉大社の末社であった由縁で、七月三十一日に行われる同社の例大祭「荒和大祓」(あらにごのおおはらい)に、当地の七名家(ひちみょうけ)より桔梗(ききょう)の造花を捧げる慣例となっている。
明治三十年に背戸口町より移された境内末社、天満宮、琴平神社とともに、大正三年、杭全神社境外末社となり今日に至っている。
社殿背後の土塁(どるい)と松山池は環濠集落(かんごうしゅうらく)の名残りが見られる数少ない場所の一つである。
説明板より
小さな神社ですが、雰囲気があります
金刀比羅さんと住吉さん 真ん中の灯篭は、元々はお社の左側に二対建立されていましたが、一基は、阪神大震災で倒壊したんで、ここに移設されたんですワ
天神さんとお稲荷さん
手水舎の盥盤(くわんばん)には三十歩大明神とあります
今でも、平野の人は、平野公園を松山公園 赤留比売命神社を三十歩神社(さんじゅうぶじんじゃ)と親しみを込めて呼ぶんや
ちょっと前は、地名も三十歩町やったしね
神社の裏側は、小高い山になってます
公園側はこんな感じ 昔は、松山池という大きな池で、ボート遊びができたんや
埋め立てられて、小そうなって、最後は、コンクリートで固められて、水も抜かれてもうた・・・
小さくなった池の太鼓橋だけは、水の無い池に残ってますわ
主婦の店も無くなってもうたなぁ・・・・
土塁に埋め込まれた石は、江戸時代あたりの、古くなった臼などの生活道具が使われてますワ・・・ 今で言う、産廃処理と、土塁建設の一石二鳥ってわけや
社務所は不釣合いな大きさやケド、昔の拝殿をそのまま利用してるからやねん
ここで、古事記のお話
昔ぃ むかぁしぃ~ 新羅(しらぎ)にある阿具奴摩(あぐぬま)という沼のほとりで女が昼寝をしている時に、七色に変化した日の光が陰部に当たり、その女はたちまち妊娠し、赤い玉を産んだ。
その様子をそばで見ていた牛飼いの男は、こんな不思議なことがあるものかと、懇願し、その玉を譲ってもらい肌身離さず、大切に持ち歩いていた。
ある時、牛に食べ物をたくさん積んで、山に入っていこうとしたら、天之日矛(あめのほひ)という男に出合った。
新羅の王の子であった天之日矛は、男が、山で牛を食べてしまうと疑いをかけ、牢屋に入れると言い出した。
どれだけ男が釈明しても、聞く耳を持たず、かわりに、この玉を差し上げますと言うと、男のことなどどうでもよくなり、喜び、その玉を屋敷に持ち帰ると、その玉は、美しい娘となった。
その娘を妻にし、暮らしていたが、何不自由なく、何でも思うがままになってきた王子であるがゆえに、ある日、驕り高ぶった日矛は、姫を激しく罵る。
姫は、「祖の国に帰る」と言い残し、小舟に乗って海を渡り、難波(なにわ)に留まる
こんな感じですワ・・・・・・
阿加流比売の祖って・・・・ 住吉大神(すみよしのおおかみ)やと思います
阿加流比売神をイメージすると、水平線から昇る真っ赤な朝日 が脳内に浮かぶからたぶんそうやと思います。
「新羅から来た女神」ってカ書かれてますが、ちょっと違和感がありまんなぁ・・・
これやと、新羅の女神のような感じを受けますけど、住吉大神の神意で、新羅に赴かれたように感じます。 もちろんネコ三昧の脳内イメージですが
神霊は、何処にでも瞬時に、同時に何ヵ所でも移動されますから、天之日矛との縁を結ぶべく、新羅に赴かれたと思うんですワ。
その後 天之日矛は、悔い、阿加流比売を追って、日本に渡ります
阿加流比売に会うことは無かったと思いますが、日本で結婚し子を授かりました。
その子供の子孫が、神功皇后やったと思います (たしか・・( ̄Д ̄;;)
神功皇后 そう 住吉大社 第四殿にお祀りされている主祭神です
神様がやりはることには、ムダがありまへん
壮大な、神意(計画)や・・・ 人智を超えた存在ですワ
三十歩神社が、住吉大社の末社やったいうんはそういうことです
これだけ離れてるにもかかわらず・・・・・
住吉大社の大きな行事として、夏越大祓(なごしのおおはらい)がありますが、七名家(ひちみょうけ)の祖先である、坂上家(田村はん)が出席しないと、成立せえへんかったんです。
荒和大祓(あらにごおおはらえ)では、荒和祓家(あわらや)と呼ばれる神事役を、七名家が務め、禰宜・稚児を仕出し、桔梗の造花を、住吉大社と堺奉行に献じてました。
桔梗の造花の造り方は、今でも七名家の秘儀やそうです・・・・
現在でも、末吉さんが、桔梗の造花を献じてはりますんやで・・
それだけ平野郷と、住吉大社とは、かかわりが深かったんや
その縁で、赤留比売命神社は、住吉大社の末社から、杭全神社の末社になったんやと思いますワ
おしまい
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