« デジタルカメラの進歩 | トップページ | 神社仏閣に参拝するにあたり17(命とは・なぜ生きる編) »

2015年7月 7日 (火)

杭全神社 平野郷夏まつり2015

平成27年度平野郷夏まつりが、7月11日)・12日)・13日)・14日)の4日間にわたり開催されます。

1507070004 1507070045 1507070061 1507070063 

7月11日) 神輿川行神事  太鼓台・神輿足洗い

午前6時ごろに、太鼓台が、その年の地車宮入一番町(太鼓台当番町)に担がれて杭全神社を出発します。

その数時間後には、裸神輿(神様が乗られていない神輿)がその年の宮入二番町(神輿当番町)に担がれて樋之尻橋たもとの、祓い所まで巡行します。

「足洗い」と呼ばれているのは、その昔 まだ平野川が護岸整備されず河原があったころに、川で太鼓台・神輿を清めたことから、俗に「足洗い」と呼ばれるようになりました。

その後  神輿は夕方  太鼓台は午後7~8時に宮入します。

7月12日) 地車町内曳行・九町合同曳行南港通り) 午後9時45分ごろ

各町の地車は、それぞれの曳行コースを曳行して、午後9時45分ごろ、学芸大通りを南下し、野堂東西脇背戸口馬場の地車が南港通り西行き車線を東方向に左折します。

もう一方は、お渡り筋(栄通り)を南下し、泥堂野堂南野堂北の地車が、南港通り東行き車線を西方向に右折します。

南港通り両側車線を使用し、平野郷九町の地車が一同に勢揃いし位置に付いたあとは、鳴り物・提灯の灯を落として、合図を待ちます。

合図の後は、提灯に灯がともり、お囃子がこだまし、決められた範囲の中を、30分間一年に一度、力の限り曳行します。

そして  時間と共に、各町に戻っていきます。

1507070109

7月13日(月) 地車平野郷内・町内曳行・宮入 午後7時ごろ~

各町の地車は、それぞれの町の地車曳行コースを曳行後に、午後7時ごろより、国道25号線を通行止め(一時解除あり)にして、一番町より順番に 杭全神社 宮入が行われます。

大鳥居をくぐるまでに、何度も行ったり来たり・・・・  そして宮入です

20~30分おきに、九町の地車が宮入していきます。

逆に  曳出し(各町への帰還)は、翌14日の、午前1時ごろから

一番町・二番町の後は、抽選順となります。

1507070107

7月14日(火) 本宮 太鼓台巡行 神輿お渡渡御

宮入二番町による神輿渡御を行い、宮入一番町が、ふとん太鼓を担ぎ町内を巡行して、神輿渡御を知らせます。

かつては、大鳥居の御旅所(おたびしょ:奈良街道拡張により接収)にて行われていましたが、現在は三十歩神社(赤留比売命神社)の御旅所・全興寺・長寶寺での神事を経て、その夜、ふとん太鼓が宮入し、遷られ、夏まつりは終了します。

1507070049_2 1507070054_2

祭事期間中の交通規制 (通行止め

各町内地区での地車曳行中の迂回は除く

1. 大阪羽曳野線・東行き

  7月12日()  21:00~23:00

  7月13日(月)  17:30~21:30

2. 栄通り(宮入コース)

  7月13日(月)  17:00~23:00

3. 市場通り

  7月13日(月)  18:00~21:00

  ※ 地車の曳行中に限る 路線バスは除く

4. 国道25号線

  7月13日(月)  19:00~23:00

  ※ 通行禁止予定 路線バスは除く

  大変な混雑・渋滞が予想されます

  現場警察官の指示に従ってください

« デジタルカメラの進歩 | トップページ | 神社仏閣に参拝するにあたり17(命とは・なぜ生きる編) »

杭全神社」カテゴリの記事

コメント

 お久し振りです。 この間、何回か表題の猫さんにご挨拶をいたしましたが、ブログ更新が無く、心配しておりました。 でも、本日から始まる杭全神社の夏祭りが掲載されました。 お元気で何よりでした。 おかげ様で、昭和30年代の祭りを懐古しております。 

 最近では、杭全神社へ参拝するお正月を除きまして、平野へはご無沙汰しております。 でも、時折、平野の商店街や、街角を訪ねて、亡母との会話を反芻しております。 

 生前には、祖父母が元気であった昭和30年代に何度も夏祭りの季節には、里帰りする亡母に連れられて勇壮な祭りを観たものですし、境内の夜店が楽しみであったものです。 地車が魅せる祭りそのものが、私が住む河内の祭りよりも洗練されて、垢抜けがしているようにも思えました。 

 今、一人で夏祭りの見物に出かけるのは、勇気が要るようです。 あの時のことを語りかける人が居なくなりましたから。 わが家で昭和の時代の祭りを反芻しておくことに致します。 

とら猫イーチさん  コメントありがとうございます  ご心配おかけいたしました
今年に入って、ゴタゴタしていまして、更新が滞ってしまいました。
表題のニャンコとは、別ネコなんですが、お正月までいたネコに雰囲気が似ています。

杭全神社のお祭りも大阪市内では大きいほうで、30万人ほどの人出があるそうです・・・
こちらは、その準備や、後片付けで大変です・・・・  
公園や、環濠を一人で手入れしていますので、お祭りの後の修復に半月はかかります・・・・・・
ですので、お祭り自体には、参加も、見物もしたことがありません・・・・

今のお祭りは、洗練されたというよりも、残念ながら、大事にしないといけないものを忘れているように感じます。

それも時代の流れといえばそうなのかもしれませんが・・・・
ありがとうございます

ネコ三昧 様

 お忙しいなかをご返信を有難うございます。

 確かに、仰せのとおりに今の祭りでは、「大事にしないといけないものを忘れているように」思われますね。

 他家に嫁いだ亡母が一年に一度、帰郷し、父母、兄弟、友人の方々と語らう場が祭りであったように今では思えます。 そして、数十年経過した今でも、懐かしく思える平野の祭りは、私も終生、忘れることはないでしょう。 

 蛇足ですが、平野郷のこと等を、思い出しては、別途、会員制の言論媒体に投稿する積りで、今、書き進めております。 その際には、ネコ三昧様のこのブログをご紹介させて頂きますので、宜しくお願いいたします。

初めまして。杭全神社の近所に住む者です。
2年ぐらい前からこちらのブログを拝見しています。
コメントは初めてです。
今年の祭りは、お囃子が弱めで物足りなさを感じています。
苦情があったとの話しもきいていますが、短い期間の大事なお祭りですから、出来れば活気が戻れば良いなと思っています。
後、平野郷の歴史についても調べていて、こちらのブログが参考になることがあります。
個人的に、広野麻呂さんが来られる前の杭全神社の辺りはどこの豪族が治めていたのかが分からないところなんですよ。
あまり関係のないことを書いてすみません。
夏バテ熱中症などかからないよう、ご自愛してください。

かずか さん コメントありがとう御座います (◎´∀`)ノ

平野も以前と比べて、新築の家やマンションなどができて、新しく来た人が多く住むようになってきました。
そこで起こるのが、鉦や太鼓の練習の音という問題です  お祭りの期間は仕方がないとしても、練習はどうしても必要です・・・・  そこで日や時間を決めて行っているようですが、それでも苦情が絶えないようです・・・・  

町によっては、南港の埋立地まで行って練習しているそうで、今後どのあたりまでならバランスが取れるのか、話し合いなり、細かな調整が必要になってきそうですね。

杭全神社の1月15日のとんど焼きも、そのうち野焼きができなくなるでしょう・・・・
さて、廣野麻呂公が治める前に誰が支配していたかですが・・・・
古文書やその他の記述が無い様で、わかりません・・・・・・
廣野麻呂公が、開発領主という風に伝えられているように、開発以前の、このあたりは、特に誰の支配地というわけではなかったのかもしれません。  
それなりの豪族とかは、いたでしょうが、ただの荒地をオレの土地だというようなことはなくて、開発して、何らかの作物を収穫する、あるいは何らかの資源を掘り出すというようなことがあって初めて、支配地となりますので、それまでは、特にだれそれの領地だったというような明確なものはなかったと考えられているように思います。

研究されている方は、何か知っておられるかもしれませんが?
その頃の記述や古文書が、今頃発見されるということは、ほぼ無いことですし・・ 
結局のところ よくわかりません
でも  想像するのは楽しいことですね。

ありがとうございます

早速のお返事ありがとうございます。
今日は宮入でお囃子が鳴っていて嬉しい限りです。
私も新参者ですが、祭りの大切さは分かります。慣れですよ。
話し合いが良い方向に行けばと思います。
どんと焼きがあれだけ気を付けて行われているのに、ダメなんて嫌ですね。

歴史についてですが、私が調べて推測したのですが
まず、豪族の物部氏が一帯を治めていました。
物部氏と中臣氏は共に神を信仰していました。
しかし、聖徳太子や蘇我氏仏教を広めようとしました。
ここで衝突が起こり、物部氏がこの地を離れます。
全興寺は聖徳太子が建立したのが始まりですから、物部氏がいなくなってから建立したものと思います。
年数は下りますが、蘇我入鹿が権力を持ち過ぎたために、中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺されます。
中大兄皇子は天智天皇になり、中臣鎌足は藤原鎌足に。ここで大きく天皇家の統治が始まります。
この頃の広野庄は天皇家の土地となっていると思います。
そこから下り、桓武天皇の時代に坂上廣野麻呂さんが杭全庄を賜ったという感じでしょうか。
藤原氏の祖の中臣鎌足にとって、この地は取り返したということになるのではないのでしょうか。
杭全神社の御祭神が素戔嗚尊なのは、備前物部氏が素戔嗚尊をお祀りしていることから考えても、物部氏との繋がりがあるのではと思うのです。
住吉大社と杭全神社の関係も、住吉大社が物部氏と深い繋がりがあるからだと思います。
書物では見つけることも出来ないのかなと思いますが、こういうことを考えるのは楽しいですね。


かずかさん  さすがですね・・ 可能性の高い推測だと思います。
大和を中心に支配していた、物部氏とはいえ、平野あたりまでは、おそらく支配していたと考えてもおかしくありません。 

丁未の乱で物部守屋が死に、その領地は、馬子あるいは、御料(天皇直轄地)として支配者が変わっていたのでしょう。 一部は四天王寺領とか、その他の領地になったでしょうが、平野あたりは、その時にすでに御料になっていたのかもしれません。 (定かではありませんが)
 
聖徳太子が建立したと伝えられる全興寺も、四天王寺に向かう街道のライン上にありますから、物部氏支配が無くなった後という感じですね。

大正の頃には、大念佛寺のそばの吉野家あたりから、直線で、四天王寺の五重塔が見えていたそうです。(ちなみに昭和9年の室戸台風で倒壊していますが)
大正12年に奈良街道改築完了なので、それ以降の話だと思います・・・
(昭和7年に吉野家の先から奈良方面が拡張され、広くなっています)

住吉大社との関係ですが、かつての住吉大社の夏越大祓は、坂上氏族が到着しなければ、始める事が出来なかったそうです。  現在でも、七名家の末吉さんが、桔梗の造花を届けて、始まります。
三十歩神社も江戸時代は、住吉大社の末社でしたが、現在は杭全神社の境外末社ですしね・・
親と子 兄弟のような、何か強力な「縁」(えにし)があるのでしょう。

また 御祭神ですが、元々神気は土地に座するものですから、逆に、そこに人を呼ぶ・関係を結ぶというのが正しいのだと私は思います。 

いろいろ想像することは楽しいですね  ありがとうございます

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 杭全神社 平野郷夏まつり2015:

« デジタルカメラの進歩 | トップページ | 神社仏閣に参拝するにあたり17(命とは・なぜ生きる編) »