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2013年8月 5日 (月)

柏原船と平野郷

まだ大和川が付け替えられる以前の、元和(げんな)六年(1620)五月二十日、近畿地方は、とんでもない豪雨に見舞われました・・

その頃の大和川も、柏原あたりでは、大規模に堤防が決壊して、二万四千石あまりの田が埋まり、荒地と化しました・・・・

田んぼが生活の糧の時代、田を失った柏原は、荒廃していったんです・・・・

そこで、志紀郡代官であった、末吉孫左衛門長方は、新しく集落を設け、新しい産業として、平野川に川船で船運をすることを考えはりマシタ

当時の平野郷は、交通の要所であり、商工業の発達したところやったんです

代官の末吉さんって??  そう平野郷の、西末吉家当主の末吉さんです

そやけど、肝心の、大坂奉行の許可が、なかなか下りへんかったんや・・・・・

そうこうしてる内に、寛永十年(1633)再び豪雨が襲いマシタ・・・

あかんやん・・・・・・

そして、寛永十三年(1636)にようやく、大坂奉行久貝因幡守(くかいいなばのかみ)は、柏原船の許可状を出したんです   遅っ

大井村(現在八尾市)庄屋二名、柏原村庄屋一名の三名が、代官から資金を借用した上で、船仲間なる組織を作り、四十艘で、船運を始めたんやて

柏原で積荷を積んで、平野、大坂京橋まで運行してましたが、この事業は大当たりで、船は七十艘にもなったそうな

それでも荷物を運びきれへんかったから、大坂の柏原船以外の船が運航したり、剣先船っていう柏原船より少し大きな船も、荷物を扱って、騒ぎになったんや

結局 大坂奉行所は、先に許可してた、柏原船に有利な裁定をして、落ち着いたんやて・・・

あ~~ 前置きが長いから、読まんと、ページ閉じてもうた人もおるんとちゃう

今回の記事のメインは、ここからでっせ

平野郷には、船着場があって、ここで荷物を降ろしてマシタ

図では、船付ってなってまんな  大鳥居の横の新屋敷っていうのが、代官屋敷ですワ  今は平野小学校やけど

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画像左は 摂州平野大絵図の一部  画像右は 平野郷町誌(1931) 平野郷町街区図より

1931年は昭和六年やから、まだ 現在の国道25号線である、奈良街道が拡張される前です

それでこれが現在の船付き場だった所ダス

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平野川に接続されていた、北側あたり

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真ん中あたり  左画像は、右側が船着場址側  右画像は、左側が船着場址側

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南側(奥側)河骨池口地蔵尊(こうのいけぐちじぞうそん)あたり

この頃の地蔵堂は、もっと国道側にあったようでんな お隣の西埜製麺さんあたりまでが、船着場址なんとちゃうかなぁ

河骨池口門は、奈良街道寄りやったから、そのあたりに地蔵堂があったと思うんやけど、移設されたんやろね

柏原船は何を運んでたかと言うと、綿作農家が消費する米と、綿作に使う肥料の干鰯(ほしか)が主やったんやてぇ~

はい  そんで  これが柏原船

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昭和57年ごろ復元されたもんっス  柏原市民文化センターに展示されてありました

昭和62年ごろに、老朽化により解体撤去されちゃいましたぁ  残念っ (ノω)

画像は平野区誌より

「長サ五尺間ニて、七間四尺五寸 梁間壱間弐尺」やて  言うてもようわからん

長さ 約12m 幅 約2m やて  まあまあ大きいやん  十五~二十石積で、船頭二人で運行してたんやて

1石言うんは、10斗であり、100升であり、1000合ってことデス

1合がお茶碗約1杯やから、お茶碗2万杯分や  よけいワカランわ・・・

繁栄を極めた、柏原船も、大和川が付け替えられ、樋門が1箇所となり、水量が激減、土砂などの堆積物が増えて、運行に支障をきたすようになってきました・・・

船も20艘余りに減り、京橋まで行っていた船も、平野までとなりました・・・

それでも積荷を減らして対処していましたが、明治22年(1889)湊町-柏原間に大阪鉄道(後の関西線)が開通し、荷物を奪われた柏原船は、明治40年(1907)最後の1艘をもって、ついに役目を終えました

おまけ

はい  ここで たぁま~にしか描かない  

ネコ三昧 脳内イラストこな~ ぱちぱち

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船頭のおっちゃん

柏原市の三田家住宅裏の船着場址

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そして、現在は児童公園になってる柏原舟ふなだまり跡地とその碑

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かつては舟だまりだった、児童公園

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柏原のおまけ画像は、2008年に取材したときの画像ですワ

平野川は農業用水としても重要やったから、農繁期には、各所で堰ができて、柏原舟の運行はできへんかったんや・・

それでは採算がとれへんから、堰き止める必要の無い、戸立樋(とだてひ)に変えてもろぉたんやて

もしこの樋が壊れても、船仲間の方で修理代を負担するという取り決めをしてたそうです  (平野区誌より)

おしまい

  

2012年10月10日 (水)

末吉勘兵衛利方と末吉船

平野郷と言えば、堺と並ぶ環濠自治都市として大いに栄えましたが、平野郷は、坂上田村麻呂の子、広野麻呂の子孫である、本家の坂上家(平野殿)と、それを支える、七名家の、野堂(末吉)・則光(三上)・土橋成安利則(西村)・辻葩(辻花)・西脇の七家が、氏神である杭全神社の祭祀を担い、江戸時代には惣年寄として政治を行いました。

末吉家は、広野麻呂から九代目の末吉から始まり、野堂氏を名乗っていましたが、藤右衛門増利の時代に、先祖の名である、末吉と称するようになりました。

増利の孫である、行増の長男 藤左衛門増久(東末吉家)・次男 勘兵衛利方(西末吉家)の発展はめざましく、両家はそれぞれ、朱印状を受けて、商業活動の特権を認められていました。

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末吉勘兵衛利方 (1526~1607) 八十二歳で没 (当時では相当長生きや) 

今回のお話の、勘兵衛利方はんには、天正十六年(1588)九月二十一日付けで、豊臣秀吉はんが朱印状にて、商業活動の自由を保障されています。

朱印船貿易っ!!  教科書で習ってた、ような 

天正四~五年頃には、信長配下の大和国守護筒井順慶よりの書状で、すでに商業活動の特権を認められていて、天正七年には、吉野山一万本を寄進していますワ・・・

ぃ い・・ いちまんぼぉ~ん??? !!(゚゚屮)屮

この じいちゃんがぁ??  またしても じいちゃん呼ばわりっ・・・

桜の木1本が、今の1万円としたって・・・ え~と・・・

い い い ち お くえ んっ・・・  Σ(゚゚(゚*)

その他、運送費やら植林なんかの費用を合わせたら、いくらになんのよっ!!

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吉野山 じいちゃん寄進の下千本の桜  画像はネット上からお借りしました

西末吉家の朱印状には、「船六艘をゆるし」ってあるから、この当時で、外洋船を6艘所有してはったんや・・・・

  大富豪やん!! (=゚ω゚=;) ナルホド  

京都の清水寺には、末吉家が奉納した、末吉船の絵馬で、寛永九年・十年・十一年のもの三面が、現在でも重要文化財として保存されています。(非公開)

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  清水寺所蔵 末吉船奉納絵馬 平野区誌より           昭和六年発刊平野郷町誌より

杭全神社にも、寛永四年に平野屋源左衛門尉 奉納の絵馬があります

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  杭全神社所蔵 末吉船奉納絵馬 平野区誌より        末吉船衝立 杭全神社冊子より

杭全神社瑞鳳殿壁の内側瓦には、井形がっ

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        杭全神社瑞鳳殿壁の瓦                    末吉家お屋敷にある瓦

寛永十三年(1636)には、日本人の海外渡航がすべて禁止されてしまいました・・・ 

世に言う鎖国は、寛永十六年(1639)~嘉永七年(1854)のことをいうそうです

末吉勘兵衛利方は、秀吉より、平野の地百五十石を拝領し、布忍村(松原市)・六反村(長吉)・阿保(あお)村(松原市)の代官として、年貢徴収を命じられてたり、銀座の設立もしてはるんやね

銀座っちゅうんは、品位を統一した、銀を鋳造する所ですワ

おしまい

 

2012年9月19日 (水)

羽柴秀吉と平野郷

天正八年(1580)信長に敗れた、石山本願寺は、大坂を去り、天正十一年(1583)羽柴秀吉は、その跡地に、大坂城を築きました。

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大坂夏の陣屏風 (部分) ウィキペディアより

その際、城下町の開発のために、平野郷の人々の多くが、移住させられました・・・

その場所が、現在の大阪市天王寺区上汐(うえしお)あたりで、古くは、北平野町村、南平野町村、さらに古地図では、「ノド丁」「ドロドウ丁」(野堂町)(泥堂町)という表記がされているそうです。

羽柴っていう氏(うじ)は、嫉妬をかわし、自分は、お前たちと同じ低い地位のの人間だったと、アピールするために、木下氏から改名したんやて・・・

羽柴秀吉の前は、木下藤吉朗っていう名前やったんやけど、この木下氏も、ねねさんの氏で、藤吉朗は、それこそ、氏を持つこともない階層の出身やったんですワ・・・

ちなみに、羽柴(はしば)という氏は、元は山で柴を刈る、一介の木こりだったところから 端柴・・・羽柴となったそうな・・・

当時は、飯を炊くにも、風呂を焚くにも、薪や柴は必要やったからね・・・・・

はい ここで ネコ三昧 脳内イメージイラスト こなぁ~

秀吉さんです (後の豊臣を名乗っている頃ですけどね)

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脳内に浮かんでくる、イメージは、肖像画とそんなに変らへん・・・

けど、顔色 悪っ!!  

黄疸出てるんちゃうん 内臓 相当悪かったんや・・・・・・(;;;´Д)

イラストでは、顔色っ 抑え目に描いてマスけど・・・

身長も、155cmくらいやったんとちゃうんかなぁ

髭も薄くて、つけヒゲやったんやて・・・ ヾ(*A`)ノ

また 横道にぃ・・・・    ハナシを戻してぇ っと・・・

イエズス会の宣教師 ルイス・フロイスは、1583年1月20日付けの書簡に

「この町に、羽柴は使者を遣わし、おのれが市、大坂の商業と繁栄のため移住することを求めた」と書いてはります。

はい  三度目の登場っ  フロイスはんです

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過去記事 平野郷 宣教師ルイス・フロイスの書簡からの使いまわし

「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」「ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした」

こんな風に、人物観察してはったんやね・・・・・・

鋭いっ よう見てはります・・・

あまり、人を殺さんような人 というイメージですが、見せしめのために、女子供200名を惨殺していたり、秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけ、妻子はもとより、側室39名の首をはねるよう命じたり・・・

大阪や名古屋なんかでは、今でも人気ある人なんやけどねぇ・・・

戦国武将やからね・・・・・・  しょうがないかぁ・・

フロイスはんは、この他にも、若い頃には山で柴を刈り、それを売って生計を立てていたということや、秀吉はんの右手の親指が、二つあるとも記録してはります・・・

前田利家はんも、指が多かったん 記録してるから、ホンマのようです・・・

信長はんからは「六ツめ」と呼ばれてたんやて・・・・・ 「」は有名やけど 

はい 次 2回目登場 信長はん・・

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過去記事 織田信長と平野郷からの使いまわしぃ

医学的には、多指症(たししょう)って言うて、先天的な形状異常なんですワ

逆に指が足らない状態を欠指症(けっししょう)と言います。

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参考画像  ウィキペディアより (画像例の人は、左手の中指が多いんかな)

大坂の城下町建設に、当時の平野郷の人たちを、強制的に借り出したっていう、お話でした・・・

なんか  横道の方が多いんやけど。。。。

それがこのブログの特徴ダスっ (`0´) もちあぢってもんスよぉ (開き直りっ)

おしまい

2012年8月31日 (金)

織田信長と平野郷

永禄十一年(1568)上洛してきた、織田信長は、大坂本願寺などに、矢銭(軍事税)を課しましたが、堺はこれを拒否、平野庄と連帯して信長の軍に抵抗しようと模索しました。

しかし、強大な武力の前に、堺も平野庄も、信長に服属することとなりました・・・・

ここで いきなり 交霊・・・ぢゃない 恒例 ネコ三昧 脳内イメージイラスト こぉなぁ~ どんどん ぱふぱふっ

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ネコ三昧脳内の 織田信長 は こんな感じぃ

元亀元年(1570)には、交通料である市津料および、陣夫役などを免除する特権を与えた上で、信長の朱印状において、徳制を免除し、近郊の百姓が平野に住むことを許可したり、陣取、放火、乱暴狼藉を受けないという特権を与えました。

その代わりに、蔵納を徴収するとともに、天王寺城普請の用材調達を命じたんです。

そのころ大坂本願寺は、信長と対立していましたからね・・

大坂本願寺というのは、現在の大阪城の場所にあった、戦国の一大勢力である、浄土真宗の城砦寺院のことで、石山御坊、石山本願寺とも呼ばれていました。

戦国時代から桃山時代には、本願寺は武装化して、武士勢力に対抗していたんですワ・・・・・

永禄十一年(1568)には、大坂本願寺にも矢銭五千貫を要求し、有名な石山合戦が起こりました。

結局 天正八年(1580)に正親町天皇からの調停を受けて双方、和議が成立したんやけど、本願寺第十一世顕如は、大坂本願寺を明け渡した際に火を放ち、全てが灰燼に帰しました。

(その跡地に、天正十一年(1583)羽柴秀吉が、大坂城を築きます)

信長軍は、十年ほどの間 一度も攻め入ることができなかったという、難攻不落の要塞やったんです・・・・・

大坂本願寺も、主だった補給も無かったと思うのですが、戦い抜きました・・・

それに、平野の人々も、ただただ信長に屈服したのではありませんでした・・・・・

平野庄の光永寺からは、大坂本願寺・寺内町に兵糧米が搬入されていたんです・・・

各地で、こういうレジスタンス活動してたんやねぇ

その証拠に、信長の朱印状で、平野庄から、兵糧米を搬入する者がいることを指弾し、このような曲事(くせごと)をする者は成敗すると警告しています・・・・・・

バレてたんや・・・ ~(°°;)))オロオロ(((;°°)~ よう潰されへんかった・・・

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現在の浄土真宗本願寺派 鷲谷山 光永寺 

明応五年(1496)坂上田村麿の後裔の明鎮が創建して、平野の人々の信仰を集めてた、教団の中でも有力末寺やったそうです。

信長はん言うたら、戦国武将の中でもそら、恐ろしい人やのに・・ 逆らうって・・・

平野の町衆は、ダダではコケへんねんなぁ・・・・・

それにしても信長はんは、「尾張の大うつけ」と呼ばせていただけでも、タダモノやあらへん・・・

アホになれる人物や言うこっちゃ  相当の自信家やったんや

柔軟やのに堅物で律儀、冷静でいて過激、自分に忠義を尽くすもの以外の、自分の道を外れるものには、それはそれは厳しい人やったようです・・・

教科書なんかでおなじみの 狩野元秀はんの肖像画は、亡くなった後に画かれたもんやからか 何や・・ 信長はんの、活き活き感があんまり伝わってけえへんワ・・・・

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画像はウキペディアより

脳内に浮かんでくる姿は、鼻筋が立派ですワ 眉毛とヒゲも薄いんや・・・・・

口ヒゲは、薄くてカッコ悪いから、無理やり、油でピンとさせてたんとちゃうかいな

フロイスはんは、信長はんのことを、こう記してます・・・

「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲(ルタール)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」

ウキペディア 織田信長より引用

そんな大男やなかったけど、筋肉質でスポーツ万能、頭脳明晰で大胆不敵・・・

殺し・殺されの戦国の世を生き抜いてきた人物像をこと細かく観察してはります・・・・

そんなフロイスはんを、信長はんは質問責めにしたそうですワ・・・ (^-^;

イエズス会の画家 ジョヴァンニはんが画いたとされる肖像画を写した写真が天童市の三宝寺に残されていますが、薄い眉毛やヒゲを濃くして、もうちょっとカッコ良くしてくれって注文付けたんとちゃうかいな・・・

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画像はネット上よりお借りしました 

だって 眉毛ボンっ ヒゲボンっって・・・ 史実と合わへんもん・・・ 

ということで、フロイスはんの脳内イメージイラストぉ 「平野郷 宣教師ルイス・フロイスの書簡」(過去記事)からの使いまわしぃ~

相変わらず イケメンにいちゃんやのぉ・・・

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この後、秀吉はんによって、平野の人々は、大坂城下町に移住させられるんです

おしまい

2012年8月11日 (土)

真田幸村と志紀長吉神社・休憩所跡2

家康はんに、一時とはいえ、切腹を決意させるほどの猛者 真田幸村(信繁)とはどんな人やったんでしょうか

ここで、恒例 ネコ三昧 脳内イメージイラストこーなぁー

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脳内に浮かんでくる、映像はこんな感じっ・・・・  戦国武将おっ!! 

昔の肖像画は、骨格的に無理な体勢してはる・・・・  腰言わすデ・・・ ( ̄)

真田幸村の画像検索しても、何ちゃらばさらの、イケメンにいちゃんの画像しか出てけえへん・・・・

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まあ・・ これはこれで  ええか・・・・・

画像はネット上から、お借りしました

ということで・・・ 記事の内容にもどりますっ・・・

現在 志紀長吉神社の馬場先だった、かつての場所に、真田幸村休憩所の石碑が建立されてあります。

神社参道の先、一の鳥居を越えて、道路を渡った右側にあります。

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会社と民家の隙間ですから、クルマの人は、見落としますワ・・・ 

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門扉にも、六連銭です  自由に奥まで入れますんデ・・・ 

「おぢゃましまんにゃわっ」 (大阪人っ・・・

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細い通路の奥に石碑があります。

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真田幸村休憩所 石碑

説明文や資料には、「御神徳をたたえ奉りて 家を思う心のうちの霧はれて神の利生に任せこそすれ 幸村」となってるんやケド、「家を思う」やのうて、「我が思ふ」(わがおもう)て読めるような気が・・・ 

単なる、気のせい  (ようわからん・・・ (;´`A``

確かに、我々凡人には、読みにくい~   ところで  これ誰が詠んだん

幸村ってなってるケド・・・・ ホンマに幸村(信繁)はんの句 なんやろか

現時点では、幸村名の書状の類は、一つもあらへんからねぇ・・・・・

“句” だか “歌” だか ようわからへんけど。。。。 ( ̄Д;;

碑自体は、新しいモンです

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この通りの先に、一の鳥居があって、その突き当たりが、軍旗と刀を奉納して、戦勝祈願した、志紀長吉神社ですワ。

今回の記事は、2部構成になっちゃいましたぁ・・・

おしまい

真田幸村と志紀長吉神社・休憩所跡1

志紀長吉神社は、平安初期(749年頃)創建の古い神社で、古くは日蔭神社と言いました。

慶長二十年(1615)五月六日  豊臣方であった真田幸村は、大坂夏の陣、道明寺・八尾・若江の戦いで苦戦を強いられていました。

道明寺の戦いの途中に 日蔭神社、馬場先で休憩し、日蔭大明神に戦勝祈願をされ、その時に、六連銭(六文銭・六道銭)の軍旗と、を奉納しました。

刀は、戦後、進駐軍に没収されてしまい、残されていませんが、軍旗は、現在でも、社宝として、大切に保管されてあります。

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現在の社殿は、コンクリート造りです・・・・ (木造の方がええなぁ・・・)

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軍旗の一部 志紀長吉神社様 HPより

毎年 正月の2日~3日 午前10時~午後4時まで 一般公開

5月4日の真田幸村公戦勝祈願祭 でも公開されているようです

真田幸村という名前は、誰もが知っているような名前ですが、実は、幸村というのは、後に付けられた名前のようです・・・・

本当の名前は、真田左衛門佐信繁・真田信繁 公なんだそうです・・・・

江戸期に流行った、「難波戦記」で、真田十勇士の一人 英雄 真田幸村として描かれて、いつしか、こっちの方が、本名みたいになったようです・・・・・・ ((・()・))

旗印の六連銭(六文銭)は、冥銭を表しています。

冥銭とは、亡くなった人に持たせる、三途の川の渡し賃のことですワ。

不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏道のために、命さえも惜しまないこと)を意味してるそうです。

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この六連銭を、戦時は、家紋のように使用されていました。

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真田家の家紋は、結び雁金や州浜なんやそうで、こちらは平時に使われていたようです。

幸村はん言うたら、平野郷の樋尻門口地蔵堂に地雷火を仕掛けて、家康はんの首、取ろうとしはったり、(過去記事:樋尻門口地蔵と全興寺の首地蔵 参照)

三度も、あと一歩のところまで、家康はんを追い詰めたという、猛者ですワ・・・

その、幸村はんも、最後は深手を負い、数人の見方と供に、田の畦に伏せていた時に、追っ手の鉄砲頭 西尾久作に発見され、四十九年の生涯を終えはりました。

一般的には、安居神社の石畳に腰掛けて、最後を迎えたとのことです。

現在 その 安居神社(安居天満宮:天王寺区)に、幸村終焉の地として、碑が建立されてあります。

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つづく

次回 2/2 で、幸村はんのイラストありマス パート2も見てね

2012年7月 8日 (日)

雪の殿様 土井利位(どいとしつら)

平野郷(平野郷町)は、正徳三年(1713)~明治四年(1871)までの間は、下総国古河藩の所領でした。

宝暦十二年(1762)~明治四年(1871)の間は、土井氏が領主を勤めていて、利位(としつら)公は、四代目の領主になります。

現在の、大阪市立平野小学校のある場所が、下総国古河藩陣屋跡ですワ

土井利位(どいとしつら)という殿様は、どんな人だったかというと

大坂城代の時に、1つ前の記事でもありましたように、大塩平八郎の乱が起こり、古河藩家老 鷹見泉石(たかみせんせき)とともに、鎮圧を担当した功績で、京都所司代に、その後は、幕府老中となり、水野忠邦を支えるも、天保の改革では、水野忠邦を、辞任に追い込み、老中首座となりました。

(過去記事「大塩平八郎の乱と平野郷」参照)

しかし、天保十五年(1844)の江戸城本丸火災による再建資金を、十二代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)に調達することを命じられたが、なかなかできず、信頼を落とすこととなり、水野忠邦が、老中首座に返り咲いてしまいます・・・

報復を恐れた、利位は、老中職を辞して、嘉永元年(1848)隠居

その三ヶ月後に死去  享年六十歳

ネコ三昧 脳内イメージイラストぉ~

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土井利位  (いつものごとく、ほんまにこんな感じやったかはわかりまへんけどねぇ)

そんな殿様にも、違う一面がありました・・・・・

下総国古河藩(現在の茨城県古河市)で天保三年(1832)に著された、日本初の雪の観察書

「雪華図説」(せっかずせつ)と 天保十一年(1840)の「続雪華図説」は、利位公が著されたものです。

当時オランダから入ってきた、顕微鏡である「蘭鏡」を使い、雪の結晶を、観察して研究、分類し、「雪華図説」「続雪華図説」にまとめ上げました。

雪の結晶やから、寒い中でやらんと、すぐ溶けちゃいます・・・ (´Д`;≡;´Д`)アワアワ

灯りは和ロウソクか、行灯(あんどん)の時代でっせ・・・・・・・・ (;´`A``

防寒着も、大したもんあらへんかったやろし・・・・・ (((゚Д゚)))ガタガタ

それでも、殿様自ら、観察していたというんですから、一風変った殿様やったということでんなぁ・・・

家老の鷹見泉石はんが協力してはったんやけど、このヒトは、蘭学者でもあって、いろんなパイプをもってはったんやとぉ~

すごい切れモンで、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどやったそうですワ

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ネコ三昧 脳内イメージ画像ぉ~ 鷹見泉石 (前回記事の使いまわしぃ・・・

地元古河の領民は、利位公を、愛着を込めて、「雪の殿様」と呼んでたんやそうです・・・

江戸時代に流行した、「大炊(おおい)模様」というデザイン(図案)は、土井大炊頭利位の大炊頭(おおいのかみ)にちなんだもんやそうです。

この蘭鏡は、18世紀ごろの顕微鏡 ユニオン光学株式会社様 蔵

画像お借りしました m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン

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雪華図説画像も、ネット上からお借りしましたぁ~

おしまい

2012年7月 2日 (月)

大塩平八郎の乱と平野郷

二百六十年あまり続いた、徳川幕府も、江戸中期頃になると、年貢米収入を基礎とした、領主制度も行き詰まり、幕府は「享保の改革」「寛政の改革」をはじめとする政治改革を行ないました。 これにより、地方で貧富の格差を生み出し、民衆の権利意識の向上もあって、各地で様々な騒動が起こっていました。

その頃、すでに、大塩平八郎は、大坂町奉行所与力を引退し、家督を養子の格之助に譲り、陽明学者として、洗心洞という私塾にて、大勢の門人を抱えていました。

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大塩中斎 (大塩平八郎) 平野区誌より

そんな頃、天保の飢饉が起こりました。
平八郎は、豪商による米価のつり上げと、将軍徳川家慶就任による、ご機嫌取りのための、江戸表への廻米に心を痛め、蔵米を分け与えることと、豪商による米の買占めを止めさせるように東町奉行に進言するも、無視されました・・・ (悪いヤツが、はいそうですねと、止めませんけどね)

この時の大坂東町奉行が跡部 良弼(あとべよしすけ)と言う人で、あの老中水野忠邦の実弟でした。(兄の威光をかさに、揉め事がたえなかったという人だったそうです・・・  やっぱりか・・・)

そこで平八郎は、自分と門人の禄米を担保に、一万両を貸して欲しいと、豪商鴻池善右衛門に頼みましたが、断られました。

実は、そのことを善右衛門は、跡部 良弼に相談して、断れ!と命じられていたからでした・・・

そこで、自らの書物千二百冊あまりをすべて売却し(六百七十両ほどに)、民衆を救済しましたが、それも売名行為だと、あざ笑われるのです・・・

世の中を変えるためには、もはや武装蜂起しかないと、門人に砲術の訓練をした後、新任の西町奉行が、跡部に挨拶に行くという二月十九日を決行日と決め、両者とも爆薬で爆死させるという計画を立てました。

計画を察知されぬように、施行札を作って、この施行札と交換に、金一朱を渡すとし、「大坂の自宅に火の手が上がった時には、駆けつけて欲しい」と、参加者を募りました。

(蜂起檄文の版木は、発覚を恐れ、なんと三十三分割されていたそうです・・・)

そして、大坂町奉行所ぐるみの不正汚職を訴える訴状を、江戸の幕閣にを送りました。

ところが、決起直前に、内通者によって、計画が筒抜けとなっていることを、奉行所内にいた、協力者が知らせ、暗殺計画を断念し、急きょ 天保八年(1837)二月十九日の早朝、大坂天満橋の、自宅屋敷に火を放ち、門人、民衆と共に立ち上がることとなりました。

約束の合図として、大筒(大砲)を二発撃ち、自宅に火を放ちました。

百名ほどだった参加者も、次第に増え、いつしか三百人ほどになっていました。

豪商を襲い、米や金品を民衆に与えていったんです・・・

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平野区誌より

火は、天満から船場のあたりまで焼け広がりましたが、反乱は半日ほどで、幕府側に鎮圧されました・・・・・・・・

(そうなることは、予想していたでしょうが・・・ (u_u))

大塩と行動を共にした門人や多くの人々は、戦闘集団ではなく、かつての心ある東町奉行所の役人や、悪政に立ち上がった、普通の農民や町民だったからです。

門人の多くは捕縛されてしまいましたが、大塩と、格之助は、混乱に乗じて逃げることが出来ました。

先に送った、告発状が江戸に届くまでの間、身を隠すために、一度、奈良方面に逃げます。

しかし、機会をうかがうために、再び大坂へ戻り、靱油掛町(大阪市西区靱本町1丁目)にある、大塩家出入りの、手ぬぐい地仕入れ美吉屋五郎兵衛宅の離れに潜伏することになりました。

平野郷町の出身で美吉屋の奉公に来ていた下女が、出替わりで実家に戻った時に、「美吉屋では、最近飯炊きの量が増えたのに、少しも残らないから不思議だ」「他の奉公人は、大方  神仏にでも供えるのだろうと気にしていないが、それにしては、お下がりが無いのはおかしい」と話していたのを伝え聞いた、平野郷町惣年寄の末吉平左門衛門・中瀬九朗兵衛が、現在大阪市立平野小学校のところにあった、下総古河藩陣屋敷に訴え出ました。

その後、下総古河藩 家老鷹見泉石(たかみせんせき)らが命じた、町奉行与力内山彦次郎が、美吉屋を尋問の上自白を得て、三月二十七日、ついに美吉屋を取り囲んでしまいます。

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鷹見泉石 平野区誌より

そこで、丸坊主姿の平八郎本人を確認、問答の末、美吉屋に篭城・・・・・・・

その後、無念の大塩親子は、爆薬に火をつけ自害しました。 
格之助は、腹を刺した状態で、平八郎は、喉を突いて突っ伏した状態で爆死していたそうです…
顔の判別も出来ないほどの状態だったそうですが、大塩親子の遺体は塩漬けにされ、他の門人二十名と供に、飛田刑場で三日間磔にされました・・・
処罰された者は、家系・家族七百五十名にものぼり、獄門、遠島されました…
幕府に刃向う者を、見せしめとして、徹底的に処罰したということですワ…

下級武士(旗本)だったとはいえ、元幕府側の人間が起こした反乱は、幕府にとっても、それほど衝撃やったんでしょうねぇ・・・

先に、江戸に送った、告訴状はと言うと、平八郎親子の望み叶わず、届きませんでした…

金品目当ての飛脚が書箱を開封していたのです・・・
その中には、書状しか入っていなかったので、発覚を恐れてそのまま山中に捨てていました…
それを拾った者が、代官所に届け、代官が、その内容に驚き、箱根関所に通報したのです…

この告訴状は、黙殺されました・・・・・・・・・・・・・( ゚д゚)
その中身には、大坂町奉行所の不正だけではなく、幕閣要職をはじめ、幕府老中六名中、四名の実名が書き記されてあり、幕府にとっても、都合の悪いことやったからです・・・

美吉屋に下女として、奉公していた平野郷の女性は、当時十七歳やったそうですけど、父親の看病の為に、実家へ戻っていたらしく、もし父親が病気でなかったら・・・

もし、この女性が、誰にも話してへんかったら・・・

もし、告訴状が、江戸に届いていたら・・・・・
歴史は、もう少し  変ってたんかもしれまへんなぁ・・・・・

ここで 高齢 ぢゃない 恒例 ネコ三昧脳内イメージイラスト こなぁ~

ネコ三昧的には、こんな感ぢぃ~

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       大塩のおっちゃん                  鷹見のおっちゃん

どんどん ぱふぱふぅ~

ちなみに、この記事は、2011年2月16日の記事(消去)を、リニューアルしたものです

やっぱりか・・・ ヾ(_ _*)  気付いたヒト エライ

平八郎さんのイラスト書きたくなったからなんと、記事の一部訂正もあったんで・・・  

鷹見のおっちゃんは、何となく・・・ 書いちゃったぁ~

大塩平八郎  寛政五年(1793)~天保八年(1837)は 元大坂町奉行所与力で、陽明学者 大坂天満の大塩家八代目 号を中斎と言い、平八郎は通称
清廉潔白で、与力時代は、西町奉行所同心 弓削新左衛門の汚職を、内部告発するほどの、人物だったが、上司である西町奉行 高井実徳の応援があったからで、高井が奉行職を去るに伴い与力職を辞して、家督を養子の格之助に譲り、自宅で洗心洞という私塾に専念することとなる。
(当時は、奉行所内に、賄賂や汚職が横行していて、カタブツ・マジメ一本槍の彼を憎む者も多かったようです・・・)

おまけ

格之助さんは、享年二十七歳  平八郎さんのお妾さんであった ゆう さんは遠島となるも、吟味中に牢死  享年四十歳  美吉屋五郎兵衛さんは、獄門となりましたが、吟味中に牢死・・ 享年六十二歳 五郎兵衛さんの奥さんの つね さんも、遠島となるも、吟味中に牢死・・・・

吟味中に牢死というのは、激しい拷問による取調べによるものです・・・・・。・・。

その他  多くの人が、亡くなりました・・・・

合掌     

おしまい

2012年5月30日 (水)

平野郷 宣教師ルイス・フロイスの書簡

イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、天正十一年十二月八日付(1584・01・20)の書簡で、

平野郷についてこう記してはります

堺の彼方約一レグワ半又は二レグワの所に、城の如く竹を以て囲ひたる美しき村あり。

名を平野と言ふ。

尊師は堺よりキリシタン見舞いのため、八尾に赴かれる時、此処を通過せられたり。

此処に大に富める人々居住せしが、羽柴は使いを遣し、其町を一層盛なるものとなさんため、大坂に移らんことを求めたり。

宣教師であったフロイスが本国に送った書簡(報告書)によると

土塁・石垣で造られた環濠に竹垣を張り巡らした、城砦のごとき村があり、それを平野と言って、尊師は、キリシタンの見舞いのために、八尾街道を通り、此処を通過した。 此処には大きく富む人々が暮らしていたが、秀吉は、大坂を平野のように栄えた町にするために使いを遣して、大坂に移住することを命令した。

と言うことが書かれていたそうですワ

やくぅーレグワはん  にレグワって・・・・・?? ( ̄Д;; なんでそう読む

約1レグワ半 2レグワですっ・・・(ε´) 無理やりやん

スペイン語、ポルトガル語圏内の距離の単位で、国によって距離が違うけど、ポルトガルでは、1レグワが、5000mやそうで、発音的にはレグアの方が正しいようですねぇ・・ 

ルイス・フロイス Luis Frois (1532年~1597年) ポルトガル・リスボン出身 イエズス会の司祭・宣教師として、嘉永六年(1563)来日(現在の長崎県西海市) 嘉永七年には、長崎平戸から京都に向かい、織田信長、豊臣秀吉と会見 「イエズス会日本通信」「日欧文化比較論」など多くを執筆  長崎にて65歳で没 

フロイスって、ポルトガルの人やったんやねぇ~

はい ここで恒例 ネコ三昧 脳内イメージイラストこーなー (いつの間にかコーナーに

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イメージとして浮かんでくる姿は、こんな感じ 金髪や栗毛やのうて、日本人に近い髪の色で、瞳はブラウン系ですワ・・・

ちょっと兄さんっ 今で言う、イケメン入ってるやんか・・・ 

ホンマに、こんなんやったんかいな・・・・・ ┐( ̄ ̄)┌ フゥゥ~ 

外タレ(海外スターのことだよん)みたいやんっ 

でも 確かめよう無いしぃ~  こんな感じやったんです  たぶん・・・・・・  

まあええやん いつものこっちゃ ということで・・・

同じころ、歴史の教科書にも載ってる、天正遺欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、天正十年(1582)に九州のキリシタン大名の、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、ローマに派遣されました。

少年4人を中心とした使節団で、天正十八年(1590)に帰国しています。

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天正遺欧少年使節 画像はウィキペディアより

その後、時代は、キリシタン迫害による一揆 「島原の乱」 (寛永十四年十月二十五日~同十五年二月二十八日)(1637・12・11~1638・4・12)など、キリスト教迫害に、進んでいくんですねぇ・・・・

キリスト教弾圧と、処刑や拷問などの事実はあるものの、失政による過剰な年貢の徴収の反発による一揆であったことから、非戦闘員やった、老人女性なども含めて、約三万七千名の死者は殉教者としては認めてもらってないんやて・・・

それはそれ、これはこれでええのんと ちゃうん・・・・・

殺し合いは、1つも ええことないけど

心情的には十分殉教者ですワ・・・ (ネコ三昧は無宗教やけどね・・)

殉教=美徳 と受け取られるから、仕方ないか・・・・

おしまい

2011年2月27日 (日)

平野郷の銅鐸

京都国立博物館所蔵の銅鐸(どうたく)、扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸は、平野郷の出土です。 

平野七名家の一つ、三上家に伝わる、天明二年(1782)の古文書には、明和年間(1764~1772)に平野郷町で掘り出された経緯、大きさや形、表面文様の特徴や、横からのスケッチまで書かれてありました。

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以上の画像は平野区誌より                           三上家 「品目上書」

この銅鐸は、伝大阪出土と言うだけで出土地などが不明なものでしたが、古文書と、古文書にある片山北海(江戸中期の儒学者 1723~1790)の銘文が銅鐸の表面にも朱書きでされていたことから、平野銅鐸であると確認されました。

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京都国立博物館HPより    片山北海の文字が見えますね・・残存高:42,2cm 口径:16,2cm 扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸のへんぺいちゅうしき は、吊るす部分の断面形が扁平であること、袈裟襷文は、胴体部の文様が、僧侶の袈裟のものに似ているからだそうです。   

隠顕有時用舎有数遺響可嗣 弗蝕弗蠧古色曄々神之攸護珎之蔵之亦豈不過

天明壬寅 冬十二月 北海片猷書    漢詩が朱書きされています

銅鐸は、三上家の小作人が、普光山修楽寺(字東鹿内)の寺ノ前で、井戸を掘っている時に出土したそうです。

現在は、寺ノ前という地名も、字東鹿内(あざひがししかのうち・字東四ケノ内)という地名も残されていませんが、平野区平野市町一丁目にある坂上公園(さかうえこうえん)坂上広野麻呂の墓が残されていて、ここがかっての修楽寺があった場所になります。

ここは平野川の氾濫によってできた、自然堤防の上にあたる場所です。

これは、堤防に埋められたものではなく、氾濫しても、水にさらわれることの無い高台に、古墳を築き、副葬品として、納められたものだと思います。 氾濫で削られたり流されたり、堆積したりして、田畑を開く時に、そのまま平地になったりして中央部などの塚の部分だけが残されたりしたのではないでしょうか。

坂上広野麻呂の墓とされている一帯も、以前は古墳だったのではないか それを後年再利用したものではないかと思います。

初期の銅鐸は、神事を執り行う、女官(巫女)が、神事を執り行う間は、誰一人立ち入ることなく、執り行っており、その始まりや、終わりなどを知らせるための、吊るして鳴らす言わばチャイムのような使われ方をしたように思いますが、後年では儀式的な神具の一つ(集落の力を誇示するもの)に変っていったように思います。

五穀豊穣の感謝を祝う、祭りのときや、神事による音を鳴らすことで、感謝や祓いを行なっていたのでしょうね。 

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現在は普通の児童公園になっている、坂上公園 (このあたり一帯が修楽寺寺領であった)

広野麻呂の墳墓とされる礎石は、後年、危険が無い様にコンクリートで固められ、周りに植え込みが作られて、知らない人が見たら、花壇かただの植え込みだと思うでしょうね・・・  昔は本来の墓所として存在していたようですが、どういう経緯で児童公園になったのでしょう

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