カテゴリー「今昔」の記事

2014年6月 5日 (木)

南海平野線中野1号踏切とボンネット大阪市バス

昭和55年(1980)11月28日に廃止されるまで、南海平野線というチンチン電車が、今池から平野までを走っていました。

現在では、大阪市営地下鉄谷町線と、阪神高速道路14号松原線が、かつての線路跡に添う形で造られています。

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画像は、南海平野線中野1号踏切の様子と現在の様子

チンチン電車が、森小路大和川線(今里筋)と交差していた地点です

白黒画像は、写真で見る大阪平野今昔おもろいで平野より(東住吉区史掲載分)をお借りしました

昭和30年代中頃の画像やろか  まだ大阪市バスも、普通にボンネットバスがあった時代です。

まだ今里筋も2車線で、踏み切りには、警報機だけで、遮断機はありません・・・・

ボンネットバスの左前でバイクのおじさんの横に立っている黒く写っている人は、ボンネットバスに乗務している、女性車掌さんのようです。

当時の市バスの多くは、ワンマンバスやのうて、2人で乗務するんが普通で、女性車掌さんは、ドアの開閉から、車内での、切符販売や、案内、安全確認・車両誘導と、多忙でした。

踏切では、バスから降りて、誘導して、また飛び乗ってはったんやで・・・・

今では考えられへんワ・・・・

当時でも、女性は深夜乗務が禁じられてたことから、終バス付近では乗務ができず、ワンマンバスに移行していくことになります。

昭和26年6月に、初めてワンマンバスが導入されましたが、完全ワンマン化完了したのが、昭和45年8月なんで、20年近くかかったんやね・・・

左奥に停車しているツーマンバスも、大阪市営バスですが、昭和34年から採用の、新塗色で、屋根が従来の濃い緑色から白色に変わったんで、夏場の車内温度が2度ほど下がったんやて・・・

白いラインのデザインの期間は短くて、その後ゼブラカラーになったようです

Photo

大阪市交通局が保存するゼブラバス(不動車) 画像はネット上からお借りしました

ネコ三昧は、このデザインが一番懐かしいですワ・・・

昔は、信号機もゼブラ信号機やったし・・・ ( ̄ ̄)ニヤリ

今では、ワンマンバスしかあれへんから、表示することもないけど、当時は、ワンマンワンマンって表示されてたなぁ・・・・

当然この時代は、まだ非冷房車でっせ・・・

市バス完全冷房化は昭和61年6月やて  そんな大昔やないやん ( ´・ω・`)

大阪市営バスのボンネット型の画像を探したけどあれへんなぁ・・・

よう探したらあるんやろうけど・・・

ということで、ネコ三昧のイラストこな~

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こんな感じやったんとちゃうかなぁ??  たぶん (゚゚;

もっと濃い緑色やったようやけど、その色が出んわぁ  まあええか(ええかげん)

当時のバスのナンバープレートは黄色やったから、何かこの手の配色の車とイメージカブってまうワ・・

オハナシを戻してと・・・ (;´Д`A ```

南行きのツーマンバスの前には、小さな橋がありまっしゃろ・・・

何て名前の橋か忘れたけど、その下を流れてる川 それが鳴戸川です・・・

現在は、今川の右コースになってますけどねぇ・・・

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現在の今里筋は4車線と歩道の広い道になって、線路跡の横に高速道路ができました

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植え込みがあった辺りが、鳴戸川跡

阪神高速の橋脚が出来た後に、橋脚の間に線路を移設して、そこをチンチン電車が走っていました。

中野駅を出てすぐに、橋脚間に入って、西平野駅(背戸口)あたりまでの区間ですワ

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画像は You Tube 「南海平野線」よりお借りしました

踏切前の看板には、止れ 事故多発踏切 とあって、下には 田辺警察署 と書かれています

昭和49年(1974)7月に東住吉区から平野区が分区されましたが、それまでは現在の平野区も東住吉区だったので、現在の東住吉警察署が、田辺警察署、現在の平野警察署が、杭全警察署という名称やったというわけです。

奥にうっすらと見えている建物は、今は無き、中野消防署(後の中野休日急病診療所)ですワ

6階建てくらいの高さでしたが、一面田んぼで、当時3階以上の建物ってそう無かったから、よう見えたはずです。

現在は高層マンションに・・・

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中野休日急病診療所は、少し北側の、環境局下水道センターの敷地内に移動しました。

おしまい

2013年10月31日 (木)

平野川鉄橋と関西鉄道蒸気機関車

平野川を渡る 関西鉄道(かんさい/かんせいてつどう)の蒸気機関車

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白黒画像は 写真で見る大阪平野今昔 おもろいで平野より(パノラマサイズに加工)

明治39年の画像やそうです・・・ 現在の、ほぼ同じ位置からの比較すると、雰囲気は、あんまり変わってまへんけど、建物や川の位置とか、広い土手とか、かなぁ~り 変わってまんなぁ・・・  (そらそうや)

現在の平野川橋梁(正式名はわかりまへんが)は、平野川の護岸整備で流れる位置が変わって、鉄橋も短くなりました・・

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昭和四年の地図より

現在よりもずっと、鉄橋は長かったんです

機関車の手前奥には、人と、馬、大八車が見えまっせ・・・

大阪鉄道が明治22年5月に、湊町(現在のJR難波)-柏原間に開業した時に、平野駅が開設され、明治33年6月に関西鉄道に合併して、関西鉄道線となりました。

明治40年には、国有化(国鉄)されてますから、この白黒画像は、関西鉄道時代後期の貴重なモンです

「かんさいてつどう/かんせいてつどう」と二つのフリガナがあるのは、当時の資料のローマ字書きが、2通りあるからです・・・

名古屋から神戸、和歌山までの路線を持つ鉄道会社の名称やから、地区で使い分けしてたんか  

「ニッポンとニホン」 などと同じで、当時は、あんまり気にせえへんかったんかも・・・

登記上はどっちかやろうけど  まあええか

単線の線路を、湊町方面に走っている蒸気機関車は、おそらく 関西鉄道22号やと思います

後の国鉄形式では870形と呼ばれていたそうですが、関西鉄道では、源平合戦での名馬から「磨墨」(するすみ)形と呼ばれてました。

正式には 磨墨形22号車ってことやと思います・・

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白黒画像は 関西鉄道磨墨21号 画像・簡略図はウィキペディアより

この蒸気機関車は、1897年から1902年(明治30年~明治35年)にかけて、関西鉄道が、英マンチェスターにあったナスミス・ウイルソン社から輸入した車両で、合計14両にもなりました。

でも  なんで、22号ってわかるんやって??

ボイラー室横の、水タンク中央に、ナンバーが描かれてるんです

画像を拡大しますと・・・・・

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う~ん  読めん・・・・ ( ̄Д;;  でも ぞろ目のナンバーで・・・・・ 

22のように読めるような

14両のナンバーは 21・22・46・47・48・49・50・51・74・75・76・77

1901年輸入の2両のナンバーは不明やけど  1897年に最初に輸入された2両 21・22号の  

22号さんのような気がします・・・・・  ドラゴンボールかっヽ( )`ε´( )ノ

ようわかるように  他の車両の画像ではこんな感じ

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参考画像 関西鉄道駒月58号 画像はウィキペディアより

この機関車は、湊町から神戸間を走ってたんやて

そう  この頃の表記は、右から左に書くんです やから 道鐵西關ってなってマス

ハナシを戻してっ・・・

画像の機関車が22号車なら、国鉄のナンバーは871号で、1941年筑前参宮鉄道に売却後、1944年に運輸通信省(旧鐵道省)が買収し、1947年に廃車となっています。  

その後 14両全て 1949年までに廃車(スクラップ)になりました お疲れ様

画像を見てお気づきのように  この頃は、貨物車と旅客車を同時に運行してたようですワ

お彼岸などでは、超満員やったそうです

で   貨車はこんな感じやったようです

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画像はネット上からお借りしました

白黒画像の貨車を良く見ると、白い丸い記号のようなものが描かれています

これはおそらく  これ  で で で~ん

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ウィキペディアより

そう  これは 關西鐵道の社章です 動輪をデザインしてるんでしょう  かっくいい

はい  そろそろ終わりです

そんで  これが現在の様子

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左画像の、左側線路が、2年ほど前に新設された部分だす 難波方面行きです

元々は、上下2線やったんですが、百済駅の貨物取り扱いが増え、城東貨物線が電化、3線化されて、現在右側が貨物線用線路となりました。

右画像の踏み切りあたりが、かつて改修前の平野川が流れていたところになります。

はい ここでは 103系電車がまだ現役です  (東京の人はビックリ

この記事は、2011年1月22日の記事(消去済み)をリニューアルしたものでしたぁ

鉄ちゃんやないから  記事の内容  間違ってたらごめんね

おしまい

おまけ

客車はこんな感じやったんやないかと・・・

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ロ481号客車やて・・ ネット上からお借りしましたぁ

 

2013年10月 5日 (土)

平野公園と松山池

現在  平野公園となっている公園は、少し前は、松山公園と呼ばれていました。

古い 平野の人は、「まつやま」やのうて、「まっちゃま」って言いますワ

でも  なんで、松山かって??

はい  昔は、環濠自治都市であった、平野郷を構成していた、松山池を埋め立ててできた公園やからです。

昔は、そら  大きな池やったんや

昭和30年代には、貸しボートがあって、小銭を持ってきては、ボート遊びをしてたんやて

その頃は、そんな娯楽もない、比較的貧しい時代やったそうやけど、その頃の子供の写真は、今より、笑ぉとる・・・・・  ええ時代やったんやなぁ

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白黒画像は 写真で見る大阪平野今昔 おもろいで平野からお借りしました

昭和30年代の写真やけど、かなり大きな池やったんや・・・

赤留比売命神社(あかるひめのみことじんじゃ)の裏側の、小高い山

昔は、三十歩山(さんじゅうぶやま)って呼ばれてたんやて・・・・

今は、何や  さつき山?? そうなん???

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記念碑と、三十歩山山頂  と言っても、三角点がない山やろうから、正式には、山やあれへんと思うけど、昔はもっと山っぽかったんやろなぁ・・・

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白黒画像は 写真で見る大阪平野今昔 おもろいで平野からお借りしました

大正時代の写真やけど、おそらく、杭全裁縫学校のおねいさんやと思いますワ

たぶん (=´Д`=)ゞ

明治三十九年五月に杭全高等小学校付設杭全裁縫学校として開校した学校で、現在の平野小学校に、裁縫室もあったんや

大きかった松山池も、昭和44年ころには、埋め立てられて、今の公園になったんです

その時に、ほんの少しだけ池を残したんですワ・・・

現在では、コンクリートで覆われて、水も抜かれて・・・・  橋だけ残ってま・・・

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左画像が南向き  右画像が北向き  公園の北側には、主婦の店平野ショッピングセンターができて、賑わってたなぁ

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公園には噴水もあるけど、節電節水で、止まったまんまや・・・

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雨水が溜まって、やぶ蚊がわくから、困るなぁ・・・・・ ┐( ̄ ̄)┌

この噴水の後ろ、山のところに、桟橋があって、20艘くらいのボートがあったんやて

ボート小屋には、おっちゃんがおって、ボートを貸してくれたんや

昭和40年代前半で無くなったんやろか・・・

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白黒画像は 平野区誌よりお借りしました  昭和30年代

この子らも、今は60歳前後とちゃうかなぁ

松山池は、お茶池なんかとは違ぉて、結構深かったようや  せやから、ボート遊びができたんやね

平野公園には、グラウンドがあるけど、松山池を埋め立てた跡地の一部にできたようです

昭和44~5年ごろの記憶では、野球場で、鉄骨の立派な、スコアボードもありましたワ

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埋めてて前は、南側に、橋が架かってたんですねぇ

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長細いグラウンドやったところが、現在は平野区 花づくり広場になっていますワ

おしまい

2013年7月23日 (火)

トラホーム診療所 平野

杭全神社の大鳥居の横で、平野小学校の南東角に、平野宮町交通警察官詰所があります。

かつては、派出所でしたが、その横に、「トラホーム診療所」というものがありました。

以前の記事「平野郷町役場2」でも少し取り上げていましたが、トラホームという眼の病気を診る診療所やったんです。

トラホームはドイツ語読みで、「トラコーマ」という呼び名の方が知られてるかも知れませんねぇ・・・

若いヒトは知らんやろケド・・・ (´Д`A ```

クラミジア・トラコマチスを病原体とする、感染症であり、伝染性の角結膜炎で、衛生状態の良くない時代には恐ろしい病気やったけど、現在の先進国では、ほとんど無くなってます・・・

でも  アジアやアフリカの貧しい国では、衛生状態が悪いさかい、21世紀でも、失明する人が多いんや・・・

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歴代の小学校校舎ができる以前は、平野郷町役場の建物があって、その前は、古河藩の陣屋敷で・・・  その前は末吉家のお屋敷がありました。

そんで  今回のトラホーム診療所の画像です

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昭和30年ごろの航空写真より

画像上側の校舎は、昭和12年(1937)に新築された、鉄筋コンクリート3階建て校舎でんなぁ・・・・

一番右端に灯篭  次に警邏派出所  そして 瓦葺2階建てが、トラホーム診療所

その横が、校園  その横が給食室ですワ・・・

昭和36年に、弁天池をほとんど埋め立てて、校地拡張してますから、この頃は、狭い校庭でぎゅうぎゅう詰めやったんやろねぇ・・・

この頃の平野小学校見取り図

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トラコーマ(トラホーム)に感染したら、急性・慢性結膜炎とかになったんです

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画像は、ネット上からお借りしました

航空写真を、拡大して切り取ると・・・  おぉ  あったあった

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左が昭和49年(1974)    右が昭和54年(1979)

この頃は、ぐ~ぐるあ~すなんて、スゴイもん  あれへんからねぇ・・・・ 

拡大したから画像粗いけど、見つけてね

トラホーム診療所は、トラホーム予防法が廃止された昭和58年(たぶん)に閉鎖されましたぁ

昭和58年(1983)言うたら、ディズニーランド開園や、初代ファミコンが発売された年やんか・・・

おしまい

2013年6月23日 (日)

平野川改修

昭和40年代には、現在の平野区域を流れていた平野川の、川幅拡張、護岸整備、直線化などの流路の改良工事が行われています。

護岸工事は、昭和55年に完成し、橋梁工事も、昭和61年度に完了しました。

平野区内上流部では、蛇行していたころの、川が境界になってたから、一部が八尾市になってたり、逆に平野区になってたりしてますワ・・・・

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現在の平野川  杭全神社付近

カモさん  もう夏になんでぇ  大阪の夏は、暑いでぇ~  早ょ 北に帰りやぁ

1羽だけやから、帰られへん事情があるんやろなぁ・・・・・

と  いうことで、改修前の平野川だす  (・oノ)ノ

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白黒画像は 平野区誌より

同じ場所の風景も、まったく変わりましたぁ・・・・・

大日本紡績 後のニチボー平野工場は無くなって、マンションになってるし・・

NACL日本電気科学工業所の平野工場も、移転してるし・・・

中央の、質屋さんもあれへんし・・・・ 横の蔵もあれへん・・・・・

何より、川幅狭いし、裏側  直っ川やんか・・・ (゚|||)

こんなん、大雨降ったら、そら すぐ溢れるワぁ

河川改良でしばらくは対応できたんやろうけど、都市化が急速に進んで、豪雨時の対策をとらんとアカンようになってきたんや・・・

そこで、昭和56年から、平野川調整池を建設して、昭和61年より運用されてます。

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なにわ大放水路も、昭和59年に着工して、平成12年に完成してます。

瓜破の交差点のところから、住之江抽水所まで12.2Kmも、あるんやて・・

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こっちの画像は、直径3.5m

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んで・・・・  こっちが  直径6.5mなんやて・・・・

画像は 大阪市主要プロジェクト集95年度版より

ごっついモンができてたんやねぇ

おしまい

画像のカモさんは、カルガモさんだと教えていただきました・・・

やから  北へ帰りはらへんのやね

2013年3月29日 (金)

今川改修之碑

平野郷の西側  東住吉区を流れる、一級河川今川は、かっては水量も豊富な、大きな川でした・・

昔は、水源である、狭山池から水が流れていましたが、大和川の付け替えで、水源を絶たれてしもうたんです・・・・・・

その後は、西池や、喜連(きれ)村などを経て来る水が集まって、流れる小川となりました。

その頃は、小魚が泳ぐ、キレイな川だったのですが、宅地化が進むにつれ、生活排水が流れ込み、昭和40~50年代は、まさにドブ川となってしまいました・・・   

ゴミも結構流れていました ┐(´д`)┌ヤレヤレ

この今川は、大雨や、台風などの治水対策のための改修工事が行われ、昭和二十九年(1954)に、今川用排水改良事業は完了しています。

それを記念して、現在の中野1丁目の川のたもとに、今川改修之碑が建立されたんです。

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白黒画像は  東住吉区創設50周年記念事業 ひがしすみよし 今昔写真集より お借りしました  昭和二十九年の画像

画像左側の道路は、南港通やけど、まだ舗装されてないみたい・・・  いや  ホンマの地道やがな・・・

川に柵どころか、川原橋にも、欄干すらあらへん・・・ (画像左が川原橋)

この頃はそれが普通やったんや・・・(゚゚)

でも、水道管は同じ位置やし、雰囲気はそのまんまやね・・・・・

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大阪市長 中井光次書 とあります

市長の中井さんは、第10代(1945~1946)と、第12代(1952~1963)の2回、大阪市長やった人ですワ・・・

完成当時は、2回目の任期中やったっちゅうことでんな・・  どうでも情報やケド

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はい裏面 アップ どん  昭和二十九年七月竣功 今川改修期成同盟会

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高架道路は、阪神高速14号松原線で、駒川と平野の間っちゅうとこです

左画像右側 側道はかつての、南海電鉄平野線の跡ダス・・・・

昭和55年(1980)11月27日廃線

高速道路ができてからは、このちょっと先の、旧中野駅から、終点平野駅手前の旧西平野駅付近まで高架橋脚間を走行してました。

当然、当時の鉄橋は撤去されてありまへん・・・

右画像は、川原橋側より  マンションモデルルームの場所は、昔は石材置き場やったなぁ・・・  

そう・・・ 草ぼうぼうやった・・・・・・

ここにあった踏み切りは、正式な踏み切りやのうて、人 一人~二人分くらいの幅やった・・・ 

当然  遮断機なんかあれへん・・・ Σ(゚゚(゚*)

平野から、中野までは、ほとんど直線やから、電車が近づいてくるんがよう見えたさかい、危ないことなかったんや・・・

今ではありえへんケド・・・・・

このあたりには、中野の消防署くらいしか高い建物はありまへんでした・・

それも無くなってもうたのぅ・・・・ (´・ω・`)ショボーン

記念碑の場所ぉ・・・

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昭和四年の地図より

昭和四年には、まだ無いケドぉ・・・・・ まぁ おもろいからエエやん・・

まだ南港通はあれへんね・・・ 左画像 左端の大阪鉄道 言うんは、現在の近鉄南大阪線ですワ・・・

この頃は、南大阪線・長野線なんかは、大阪鉄道  大鉄 やったんやね

当時は超田舎路線やったから、経営も相当キビシかったんやろなぁ・・・・

大鉄は、昭和18年(1943)に関西急行鉄道 関急 に、その関急が昭和19年(1944)に近畿日本鉄道 近鉄になり申した

大阪阿部野橋のデパートも、昭和12年(1937)開業時は、大鉄デパートやったし、現在の阪南大学付属高等学校も、昔は大鉄高等学校やったなぁ・・・

大鉄の頃は、普通科だけやのうて、工業科や商業科もあったで・・・

(昭和61年(1986)に改称)

その時代は、甲子園によう行っとった・・・

センバツに過去5回出場してるんや・・・・・

プロ野球選手も、ようけ出てるんや でも 野球選手のことは、よう知らん・・

確か 今は解説者で盗塁王の福本のおっちゃんもそうやで

あ。。。  またハナシが 逸れてもうた・・・

おしまい

2012年11月26日 (月)

弁天池埋め立て 校地拡幅

現在 杭全神社の弁天池は小さな池ですが、少し昔は、大きな池でした。

大阪市立平野小学校校庭として、昭和36年に、ほぼ現在の大きさまで埋め立てられ、5月には、祝賀記念式典が行なわれました。

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さらに、杭全神社創建千百五十年大祭記念事業として、弁天池も改修され、遊歩道ができて、一回り小さくなりました・・・

昭和四年の地図ではこんな感じでした

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小学校の上側の逆 T型の池が、かつての弁天池です。

埋め立て工事直前の画像がこれ

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奥のほうに見えているのは、ニチボー平野工場で、手前の方は女工さんたちの住んでいた寮の建物だと思います。

現在の筆塚や、日露戦役記念碑の裏側には、料亭の松月とか、民家が数軒ありました。

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昭和34年ころ?の平野小学校  この校庭で2000人からの生徒がいてたんやから、そら、狭すぎですワ・・・・

現在だんじり庫や、プールがあるところは、まだ人家があり、ホントに狭かったようです・・

それで、弁天池を埋め立てマシタ・・・ ( ̄ ̄;)!

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そんで、これが昭和39年?ごろの平野小学校

弁天池やった大部分が埋め立てられて、北運動場になりました。

生徒数は、2000人くらいはまだいててんやろね、鉄筋校舎は、4階建ですワ・・・

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国道25号線側は、サッシ窓やったけど、こっち側はちがいますねぇ~

あの頃は、交通戦争って言うて、音もうるさくて、ろくに窓も開けられへんかったんやろね・・ 排ガスもすごかったみたいで、当時でも空気清浄機が設置されてたんやで・・・

夏前には、光化学スモッグ発令言うて、校庭に注意旗が立ったら、外で遊ばれへんかったなぁ~

 この頃でもまだ人家が残ってますね・・・  それに、体育館やなくて、まだ講堂やし

正門もまだ、参道側のありますやん

今では少子化で、学年2~3クラスですワ・・・ 

少子高齢化・・ エライことです (´Д`A ```

校舎も新しくなって、配置もなにも変わってしまいました・・・

「なかよし像」は、現在でも、体育館横片隅に保存??されています。

おしまい

白黒画像・校庭図は 平野小学校創立100周年記念事業 平野百年のあゆみ より

おまけ

弁天池は、江戸時代では、蓮池って呼ばれてたみたいですね・・・

現在の平野小学校は、下総古河藩陣屋敷跡に造られていますが、陣屋敷の前は、末吉家のお屋敷がありました。

2012年10月15日 (月)

平野郷 古河藩土井氏陣屋 陣屋門

大阪市立平野小学校の場所は、かつては、徳川家康の陣が置かれていたり、代官末吉氏の屋敷があったりした時代も有りましたが、宝永三年(1713)~明治四年(1871)までは、下総国古河藩の陣屋がありました。

陣屋っちゅうんは、国外の領地を治めるための出張所のようなところです。

今回のお話は、宝暦十二年(1762)~明治四年(1871)まで、平野郷を治めていた、古河藩土井氏の陣屋のお話です。

融通念佛宗総本山である、大念佛寺の南門は、かつての古河藩の陣屋門を昭和37年(1962)に、移築保存したことは、以前にもご紹介した通りです。

元々は、現在の平野小学校の東側、杭全神社の参道に面したところにあり、昭和二年(1927)まで、小学校正門として利用されていました。

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案内板にもそう書かれてあるから、陣屋の時からこんな感じの門やったんやと思われている方がほとんどやと思いますが、そうやないんです・・・

そう言われたら、寺院っぽい門やな、と感じるでしょ・・・  

 感じない・・・  (||liω) ぐす

ううぅ・・   でも ムカシはこんな感じぃ

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昭和七年発刊 平野郷町誌より

ほらね  明らかに寺院風になってるやんかぁ・・

門そのものの雰囲気は、残ってるけど、大屋根(と言うのか)を支えるために、柱とかもより太いものに変わっているようですねぇ

おそらく、利用できる古材は、そのまま利用したという感じなんでしょう

移築してからでも、すでに50年たってるから、その時の部材も、それなりに古くなってるでしょうけどね

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古河藩土井氏陣屋図 文化九年(1812) 平野区誌より

図の下側の商家があるところが、現在の国道25号線のところで、右下の門が、平野郷十三口の一つやった、社内入口門(現在は痕跡なし)が見えますね・・

やけど、今回は、陣屋門っ

右側を、ちょっと拡大して、右回転っ どん うまいこと写らん・・ (色弱検査表やありません)

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この図からすると、陣屋門は、お城の門のような感じ、やったんかもしれませんねぇ~

堀(溝)はあるし、白壁やし・・・

やっぱ 白黒写真に、雰囲気は近いねぇ  ( ̄+ ̄)

現在同じ場所、はこんな感じぃ

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現在の杭全神社参道から見た、平野小学校

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廃藩置県が、明治四年(1871)・・ 

廃止された、古河藩陣屋の跡地に、明治五年(1872) 住吉郡第一学区小学校として、創設された古い学校で、その頃の通学区は、平野郷町・散郷地区だけやのうて、七町十三ヶ村に及んだそうで、遠い所の児童は、毎日1時間以上も歩いて登校してたんやて

おしまい

 

 

2012年9月25日 (火)

大念佛寺と牧場

大阪市平野区にある、融通念佛宗 総本山 大念佛寺のあたりは、平野郷 本郷の北西にあたる場所です。

お寺の南西側の環濠の外側の場所には、昭和43年ごろまで、牧場がありました・・・

正確には、いつごろまであったんかなぁ

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白黒画像は、大正十四年(1925) 南大阪編入記念誌より

大正十四年発刊の本やから、それ以前に撮影したことは間違いないんやけど・・・

写っているのは 、どうやら、旧本堂のようです・・・・・・

そう、以前の記事でもご紹介したように

この旧本堂は、明治三十一年(1898)に焼失していますから、それよりも前に撮影されていたことになります・・・

過去記事 「大念佛寺 旧本堂」「大念佛寺 旧本堂と万部おねり(聖聚来迎会)」参照

それにしても、何でこの場所と角度で撮影しはったんやろね???  

今とは違って、写真機自体も、高価で珍しく、フイルムやのうて、ガラス板に記録してた時代やろうに・・・

今のデジカメぇ ありがたス  

すぐ消せるし 枚数 ほとんど 気にせんと がす がす 撮れるでぇ~ヽ(´`)/

はい  コレだけでは、ハナシが膨らまないってことで・・・・・

この写真の、すぐ南側に、牧場があったっていうお話です・・・ (無理やり

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これが現在の画像ですが、レンガ色のマンションとその左のガレージとその奥の居酒屋あたりに、牛舎が二棟あったそうです・・・

朝には、牛舎の掃除と、放牧の為に、牛を出してて、雑草を、はむはむ してたんやて・・・

周りに、文化住宅が、流行で建ちはじめるまで、住宅もそれほど無かったんです

その牧場が「鵤牧場」(いかるがぼくじょう)という名前やったと思います

正式名はようわかりませんケド・・・・ 

大阪の人やったら、結構覚えてる「やっぱり いかるが いかるが牛乳っ!」ていうCMの いかるが牛乳の牧場があったんですねぇ・・・・

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昔 牧場があった その痕跡として、株式会社いかるが牛乳のグループ企業である、関西デイリーって会社が今でも、ありますワ・・・

そやけど、いかるが牛乳言うても、2つ会社があるんやで・・・・

え゛っ w(゚o゚)w 何で

以前の記事でも紹介したことのある、加美南の「いかるが乳業株式会社」さんが本家筋の会社で、今回の記事の「株式会社いかるが牛乳」さんは、分家筋の会社にあたります。

現在は、全く別会社で、グループ企業でもないんやて・・・

元々は、大正5年(1916)に、鵤 春蔵さんが、大阪市生野区につくりはった、鵤牧場が最初で、大正12年(1923)に親戚が同じく、鵤牧場をつくったっていうことなんです・・・

どっちも、鵤さんやから言うても、違う名前にしたらええのにね・・・

関西デイリーさんていう、いかるが牛乳系の会社があるっちゅうことは、ここは、分家筋の牧場やったんかいなぁ

本家(本店)の鵤牧場は、第二・第三・第四牧場を持ってたそうやから、元々は、このうちの一つやったんやろうか

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この牛乳箱は、現いかるが乳業さんのもので、鵤の字の丸が一重 箱の横にはアルファベットで表記されていますね・・・

古いタイプは、区別するために、本店とか、イカルガとか書かれてるようです

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販売店や、時期によって様々なバリエーションがあるんで、ようわかりまへん

んでっ・・・・

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こっちが、現いかるが牛乳さんのものですね

画像は ネット上よりお借りしました

鵤の字に、丸が二重 そして何より 牛のキャラクターがっ!!

そう この牛さんこそ  いかるが牛乳の 「かるちゃん」です

Karuchan 

生野本社 (生野区北生野町:現生野西)となってますが、現在の本社は住之江区にあります

一方 いかるが乳業さんは、生野区で創業後、昭和30年(1955)に東住吉区加美福井戸町 現平野区加美南の、京阪牛乳さんの設備を買収して移転しました

京阪牛株式会社は、昭和19年に寝屋川に疎開しはったんやけど、その前身の島田牧場に、第17代 韓国大統領の 李 明博さんの一家が住み込みで働いてはったんや・・・

ちなみに、島田牧場は、元々は大阪市住吉区松田町2丁目 現旭町2丁目にあったそうですが、乳牛が250頭に増え、手狭になって、昭和13年(1938)頃、東住吉区加美福井戸町3丁目 現平野区加美南3丁目に移転したんです・・・

大統領は、1941年(昭和16年)12月19日 現平野区の社宅で生まれはりました・・・

あああぁ・・ 横道に逸れすぎっ・・・・って どこまで行くんやぁ・・・

どの内容が、メインなんかわからへんなってもたぁ・・・

そう言えば、韓国も、中国との関係も、あんまりええ状態やないようでんなぁ・・・・ (゚゚;

もお ええか・・・ ついでに 過去記事 「平野と乳業」 も見てね

まとまりナク 

おしまい

おまけ

昭和4年の地図より

Q2 Q3

2012年9月 4日 (火)

平野郷 坂上公園

平野区市町にある「坂上公園」は一見どこにでもある、住宅街の児童公園です。

ですが、ここには、平野の名前の由来となった、坂上広野麻呂(さかのうえひろのまろ)公の墳墓があります。

坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)公の次男になる人で、延暦六年(787)~天長五年(828)という、平安時代初期のお人ですワ・・・ えらい古い話やのう

そやけど  若い人や、新しく平野に来た人は、気ィ付かへんような感じですワ・・・

興味もあらへんこっちゃしねぇ~ ヾ(´Д`A しかたナス

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はい  こんなおっちゃん   お・・・ おっちゃんって・・・・・・ (゚゚;

だって  大の酒好きで、飲みすぎで死んではるんやもん・・・・・  それは関係ない (キートン山田)

画像は平野区誌より

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これがその墳墓っ  って ただの花壇やんっ!!

まあ・・まあ・・・ そう見えまっけどぉ・・・

上からのぞくとぉ

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てっぺんに、がにょっきり出てますぅ

ここに、この石と同じ重さで乗っかると、秘密の石室が、ごごぉおおおおって

開きまへん・・・

財宝やのうて、バチがあたります・・・・・ (つд⊂)エーン うそつきぃ

あかん  話が進まんと、戻るをクリックされそうやぁ・・

後半へつづくぅ・・・ (キートン山田)

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坂上広野麿の墓

平安朝の初め(西暦八〇〇年頃)蝦夷(えぞ)攻略に武功を樹てた坂上田村麿の第二子広野麿が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。

広野麿は、嵯峨(さが)淳和(じゅんわ)の二帝につかえ、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じられこの地に永住し、天長五年三月九日(八二八年)死没した

坂上家は以来、子孫代々民部を名乗りこの地を領有し、人々から平野殿と呼ばれたが、地域の発達とともに子孫に傍系が広がり、後に坂上家の七名家(しちみょうけ)となった

「平野」の地名の由来について、この広野麿が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」になったといわれている

平野区役所

てな感じです  でも、形式上の墳墓で、ホンマに、遺体を葬ったものやないように感じますワ

Photo

明治の頃の、広野麻呂公墳墓 平野郷町誌より

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んでっ  その後 大正時代の 広野麻呂公墳墓 

平野小学校百周年記念 平野百年のあゆみより

原野っぽかったのに、墳墓として整備されて、門扉が付いてますワ・・・(=゚ω゚=;)

元々は、修楽寺の址で、古くは古墳やった所のようです。

過去記事「平野郷の銅鐸」「杭全神社 田村祭」  参照

雑木林も、今や住宅街の真ん中やぁぁあ (゚゚)

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杭全神社からも、すぐなんで、いっぺん見に来てねぇ~

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杭全公園の 北東出口を出て右折(画像奥の道路を右に) 次の角を左折して、余慶橋を渡り

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三叉路の一番右の道を進み、次の道を左折

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ハイ到着っ・・

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さかがみこうえん」やのうて、「さかうえこうえん」です

正確に言うんやったら、「さかのうえこうえん」なんやけどねぇ・・・・・

昔は、田村公園っていう名前でしたワ・・・ (何でか? 広野公園やないんです)

昭和23年(1948)9月10日に、現在の児童公園として開園されました

おしまい