カテゴリー「東住吉区」の記事

2014年3月 9日 (日)

今川の水量 今川せせらぎの里

2014年に入って特に、今川の水量が少ないなと感じていたので、現在の最上流部に行ってみました

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ここが今川の最上流部地点です

画像で言うと、川の左半分が東住吉区湯里6丁目で、右半分が平野区喜連西4丁目になりますワ

でも、何もないやんって??

はい  その通り  今川は現在は水源のない川の一つなんです・・・・・・

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今川って、1級河川なんやけど、それより 看板の「ima River」って変なの・・・

ローマ字表記はよう見るけど、違和感感じるワァ・・・・  まあエエか

それはさておき  湯里側に水を吐出する設備があります

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今川せせらぎの里」っていう名称やったと思うけど、昭和62年に手づくり郷土賞 水辺の風物詩三十選に選ばれてるんです

取材した日は、水が出てたけど、よう止まってたし、水量が確かに少ないですワ

フェンスにこんな張り紙がありました

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一部抜粋しますと  今川・駒川・鳴戸川は固有水源をもたないため、平野下水処理場の高度処理水を河川の浄化用水として導入しています。

この度、今川・駒川・鳴戸川の水源を担っている平野ポンプ場の老朽化に伴う更新工事のため、工事期間中、川の水位が低下します。

そういうことでしたか・・・  3月下旬までの予定のようです

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画像左が現在で、右が2009年の画像です  全然ちゃいまんな・・・

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100mほど、せせらぎがあって、今川に流れ込みます (このあたりゴミ多いっス)

以前は川の横は、雑草だらけで、ウンチも多くてとても歩ける気になれませんでしたが、現在は、今里筋(森小路大和川線)まで舗装されてマス

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赤い舗装路が散策コースですワ

遊歩道の終点がここ

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この暗渠(あんきょ)の上が今里筋  そうこれ 今里筋に斜めに架かる橋なんです

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車で走ってたら、橋やと気ィ付きまへんワ・・・・

橋には手すりのような柵しかあらへんし、欄干も、名称のプレートすらあれへんから、この橋の名前 ほとんどの人は知らへんなぁ・・・

この橋の名前は、「中島大橋」ちゅうて、昭和41年に架橋されてます

豆知識のコーナーでした

って! いつできたっ!! Σ(・ω・ノ)ノ

んで  これが 平野下水処理場

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2008年の画像ヤケド  変わってへんやろ  たぶん・・・

おしまい

2013年5月12日 (日)

鷹合 酒君塚(さけきみつか)

平野郷から八尾街道を南西に進んで行くと、東住吉区の中野 そして鷹合という地名になります

その、鷹合にある酒君塚公園は、酒君塚古墳(さけきみつかこふん)を公園にしたものです

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古墳の傾斜を利用して、滑り台が造られて・・

こんもりした古墳部の頂上には、石碑が建立されてマス

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酒 君 塚

酒君は 「日本書紀」仁徳天皇の四一年三月条によれば、百済の王族であり、仁徳天皇の命を受けて鷹を飼育したとあります。 また鷹合の地名は、「日本書紀」仁徳天皇の四三年九月

是の月に、はじめて鷹甘部を定む。 故、時人、その鷹養う処をなづけて、鷹甘邑という。

の記事にちなむといわれています。

この酒君塚は、江戸時代中頃に成立した「摂津志」によれば、住吉郡鷹飼部第宅の古墳、鷹合村にあり。 また、鷹甘部の墓あり、今平塚と称す。

とあり「鷹甘部の墓」あるいは「平塚」と呼ばれていたことがわかります。

発掘調査の結果、上部を削られ低くなった古墳に江戸時代の終わりから明治時代のはじめに盛土をして、墳丘状にしたものであることがわかりました。 もとの古墳の形状など、くわしいことはわかりません。

頂上に立つ石碑は、明治三四年(1901)に建てられたもので中央に大きく「酒君塚」、左下に「正四位男爵国見□□」と、題字の筆者の署名が刻まれています。

大阪市教育委員会

説明板より

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昔の字(あざ)は平塚と呼ばれていたようですが、塚の主である「鷹甘部」(たかかいべ)は、この地を治めていた、権力者やったんでしょうね

発掘調査では、造成が四世紀末で、直径35m以上 高さ2m前後の丘陵が確認されたそうです。

依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)が、見慣れない鳥を捕まえて、天皇に献上したんやて・・・

ところが、何という鳥なのかわからへんかったから、百済からの帰化人やった、酒君を呼んで尋ねたところ、「この鳥は百済に住む 倶知(ぐち)という鳥で、飼い慣らすと、鳥を獲ることができる利口な鳥です」と答えはったんや・・・

倶知 言うんは、鷹のことですワ・・

仁徳天皇は、「ならば、この鳥を慣らせ」と、酒君に命じられました・・・・

そら・・・  そう来るワ・・・・・・

そんなこんなで、訓練後、脚には、「おしかわのあしお」というのを付け、尾羽に鈴を付けて、再び献上されましたぁああ

喜ばれた天皇は、百舌野で、雉(きじ)を十数羽捕らえたんやて・・・・・

「これはすばらしい鳥だ、もっと増やせ」と、酒君を鷹所の所領として、鷹を飼育させました

そら    やっぱり  そう来るワ・・・・・・・・・・・・

それが、鷹甘部(たかかいべ)のはじまりで、その鷹を飼う村を鷹甘邑(たかかいむら)と呼びました

鷹甘邑が、鷹飼村となり、それが、現在の地名の、鷹合村となったんですワ・・・

お隣の湯里は、湯谷嶋村でした

ということで、気が向かないと描かない、ネコ三昧のイラストォこなぁああ!!

どんどん!!  ぱふぱふ (≧≦)/

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昔ぃ~の 鷹匠サン  何や  マタギみたいやん・・・・・

ホンマにこんなんやったん??・・・    知らんっ!!

あれ  ?  みんなぁ~  ついてきてるぅう~

はい はい  どんどん  進めていきますっ  

酒君塚近くの、鷹合会館のひさしの上にはぁっ!!!!

なんとぉ!!  でで~ん

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地球に乗った鷹ぁあ がっ!!

建物はこんな感じで

入り口がこんな感じ  これって  もしかして・・・

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この入り口を入ると  そこにはっ・・・・・・

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ずらっと・・  こんなおっちゃんがぁ・・・・

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イぃーーーーっ

ええっ!! ショッカー支部っ??

でも   確かに  よう似とる

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今の子は知らない ショッカー首領

その声は、銭形警部役の、納谷悟郎サン  亡くなったけど・・・

お後がよろしいようで・・・

おしまい

ショッカーさんの画像は、ネット上からお借りしました

2012年11月15日 (木)

平野区区画整理記念会館の力石(ちからいし)

(財)平野区区画整理記念会館文化会館ホール正面左側に、力石が2つ展示されています。

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平野区と名前が付くのに、所在地は、東住吉区中野2丁目になるんです・・・

そう、元々平野区は、昭和49年(1974)7月22日に、東住吉区から分区しているからなんです・・・

東住吉高校や、東住吉総合高校(旧工業高校)も、名前に東住吉が付くけど、所在地は平野区っていうのの、逆バージョンですワ・・・

はい  前置きはそのくらいにして・・・ 「力石」って言うのは、現在のバーベルのようなモンで、100kg~ほどの丸平たい石を、持ち上げて、力を競ったり、奉納したりするための石のことです。

頭上に差し上げるから、「さし石」とか「運動石」とかでも呼ばれています。

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以前の記事でご紹介したこともありますが、杭全神社にも大坂相撲の力士「朝の岩 岩吉」さんの奉納力石が残されています。 (過去記事 杭全神社の力石(ちからいし)参照)

また、過去記事 「河骨池口地蔵尊の力石」でも、力石を紹介してあります。

はい  本題に戻りますっ

上のさし石は、重さが、弐拾七貫 約103kg・・・・・・

下の運動石は、重さが、四拾貫 約150kg。。。。。。。。。。。。。。

こんなん持ち上げようとしたら、体液全部出て、死んでまうわっ!!

早死(さし)遺志になってまうがなっ!!! アブネ━━Σ(゚д゚;)━━!!

え?  の103kgは無理やけど、綿の103kgやったら持ち上がるって??

あほぉおおおおぉぉ!!  落語かっ!!

失礼しました・・・  

どちらの石も、久川寅吉さんの所有やったもののようで、ここに寄贈されて、展示されているんですなぁ

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杭全神社の弁天池の玉垣にも、寅吉さんの寄進の玉垣が残っています。

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画像右から2本目  横には「消防組」と刻まれていますっ

元々は、参道側にあった玉垣ですが、車がぶつかったりして、折れたりしていたのを、弁天池改修工事で、遊歩道に移設したんです。

神社内にも、消防組の玉垣が残っています

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こちらも、創建千百五十年大祭の記念事業で、奥に移設されました。

消防組の玉垣の横には、「平野郷警察署詰」と刻まれてあります。

どうやら、寅吉さんは、平野郷の消防組の一員やったんやないでしょうかねぇ

消防組っちゅうんは、現在の消防署組織のことで、江戸時代では、町火消しのことですワ・・

明治のころの、消火活動って言うのは、放水するよりも、延焼するのを防ぐために、家屋を解体する消火活動がメインやったんと思います。

やから、こんな力石でも、持ち上げられてたんやろね・・・  たぶん・・・・

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大正時代の消防組 旭神社にて 画像は、ひらのくひゃくねんしより

大正時代の写真やけど、寅吉さん写ってるかな

右側の人とかは、勲章付けてはるし、サーベルもってはるところを見たら、当時の巡査とかと同じくらい、権威があったんやろうね・・

おしまい

2012年11月12日 (月)

鳴戸川改修之碑 2

東住吉区には、平野川・駒川・今川・鳴戸川という川が流れていますが、今回は、鳴戸川についてです。

現在の鳴戸川は、今川の右ルートのような川ですが、元々は、今川とは別系統の川で、今川は河川で、鳴戸川は農業用水というような感じやったと思います。

昭和40年代後半頃の、下水道が普及するまでは、どちらも、ドブ川みたいになってたけどね・・・

改修前は、現在よりも東側を流れていました。(鳴戸川改修之碑 過去記事参照)

改修工事完了を記念して、昭和36年に建立されたのが、この記念碑というわけです。

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白黒画像は 東住吉区創設50周年記念事業委員会 ひがしすみよし今昔写真集より

畑の隅にぽつんと建ってますね・・・  現在では住宅が立ち並んで畑はありません・・・  今は公園やけど、そういや畑があったなあ グラウンドは空き地やったぁ  

奥の今川霊園との間に、民家か農作業小屋らしきものが、あったんですねぇ・・・  奥に写っている民家は、今川を渡った側(西今川町)の家やと思います。 

この記念碑よりも後の昭和48~50年頃から(多分)、 国道25号線側より、今川と一体化工事がされて、最終的に、白鷺中学のあたりの、うるし堤公園で、今川と鳴戸川が合流することになっています。

農業用水としての役目も終わってるし、なにわ大放水路もできてるからね・・

ちなみに、今川も、駒川も水源は、高度浄化された水をポンプで送ってるんです。

今の大和川の流れを変える前は、狭山池とかが水源やったんやでぇヾ(*A`)ノ

画像右が、今川で、左が鳴戸川です。

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元の鳴戸川跡は、遊歩道になっています。

南側では、現在は、中野町公園のところで今川が、鳴戸川に分かれています。

画像左が今川で、右が鳴戸川です。

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このあたりの鳴戸川跡は、遊歩道になっていて、せせらぎが造られていますが、ポンプは止められています。

昔このあたりの鳴戸川に、細い鉄製の橋がかかってたと記憶してるんですが、ちがうかな

右画像の左側から流れてきて、90度東進、南海平野線横(現在の阪神高速松原線橋脚と道路が線路跡)を流れていました。

画像奥側(東方向)が上流です・・

ここで、今里筋と交差します  チンチン電車の踏み切りやったなあ・・・

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左画像は、渡った所で、水路みたいな感じやったと思います。

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次の角を90度右に曲がり、チンチン電車は、ガードの上を走ってました。

サンガリアの本社横を流れてぇ

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埋め立て直前までは、南港通りのところまで水路があって、そこから先の中野中学校方向は、土管のような暗渠(あんきょ)になっていたように思います。

昔は、その先の東住吉高校のあたりから、流れてたんとちゃうかなぁ

このあたりは、平等堤っていう堤があって、小さな川が3本ほど集まってたからねぇ・・・

昔は、田んぼや畑ばっかりやったのに・・・

おしまい

おまけ

サンガリアさんは、昭和26年に石山食品工業として創業して、瓶入り飲料を製造してはったんや・・

今の社名のサンガリアって「国敗れて山河あり」からきてるんやて

「山河りあ」やぁ

ゆる~いCMで、大阪人やったら、誰でも知ってるハズっ(≧≦)

自販機のジュースも、今でも100円やぁ  最近でこそ、ディスカウント自販機が出回ってるけどね・・・

工場の横はぁ  コーヒーとか、甘ぁい、においがしてるぅ~ ( ^ω^ )

他のメーカーは絶対作らんような、けったいな商品(褒め言葉)作りはるから、楽しみや  がんばってやぁ

2012年8月22日 (水)

針中野 中野鍼

針中野の住宅街に、大きな、お屋敷のような、古い鍼灸院があります。

でも・・ よくある町の鍼灸院とは、全然雰囲気が違いますぅ・・・・・

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昔の寺子屋みたいな雰囲気の建物で、入口は、もうほとんど時代劇やん・・・・・

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パッと見ただけでも、古そうな鍼灸院 (゚*) 

実は平安時代から続く、治療院やったんです・・・・

何でも、弘法大師が、嵯峨天皇の聖朝にあたり、この地を巡られた時のこと、現在の中野家の祖先である、治平氏が、弘法大師と知らずにもかかわらず、宿を提供し、もてなしたことへの感謝として、鍼術の秘法および、自作の大人と子供の遂穴偶像(すいけつぐうぞう)二体を伝授されたそうです。

現在でも、家宝として大切に保存されています

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阪堺軌道平野支線名勝より (写真抜粋)

現在の院主が第44代だそうです  よんじゅう・・ よんだい・・・・っ・・・  て スゴ

鍼師や薬師として代を重ね、一子相伝で、技を受け継いでるんやて・・・

こにヒトみたい・・・

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コロッケパンと焼きそばパン  いちご牛乳 ダッシュでなっΣ(゚д゚;)

けんしろ~サンの画像は、ネット上からお借りしました・・・ (いぢめじゃないからね)

じゃなくて・・・・・・・ (;´`A``

特に明治大正期の第41代 中野新吉さんの時代は、そら すごかったそうですワ

新吉さんは、西洋医学も学ばれていて、中野鍼の門をくぐるだけで効くって言われるほど大人気やったそうです。

大正三年(1914) 阪堺電軌鉄道平野支線が開通すると、新吉さんは、7つの道標を設置しはったんです・・

後の 南海平野線ですね (昭和50年廃線)

それで「はりみち」という名が定着したんですワ・・・

現在でも2つの道標が残ってます

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もう一つ 旧裏門側にある道標 (現在は表側) 新吉さんの名も入ってまんな

アスファルトで舗装のたびに、文字が見えんようにっ・・・ (゚゚;

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大正十二年(1923)には、大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)が開通

駅の開設のために、所有地を提供して、住民にも呼びかけ、駅を誘致されたそうです。

それで、駅名が「針中野」になったんやそうです・・・・

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正確には、鍼中野なんやけどね・・・

電車が2つも開業したさかい、1日に500人ほど来院しはったそうです・・・

その当時は、屋敷内に、宿泊できる所もあったんやて

昔は、遠くからでも、3階建ての塔が見えてたそうですが、老朽化のために、昭和50年に取り壊されました。

(´・ω・`)ざぁんねぇ~ん

昭和50年(1980)には住居表示も、「針中野」になってるんやけど、第43代は固辞しはったそうです。

中野通り・湯里町(一部)・東鷹合町(一部)の住民が、やっぱ「針中野やで」とのことで、最終的には、そうなったんやて。

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宝暦十三年(1763)の摂州平野大絵図にもちゃんと載ってますぅ

同 中野村小児鍼師って・・・・

中野村も、平野郷の散郷の一村やったからね

ちなみに、診療は予約制ですから ご注意

おしまい

 

2012年6月 4日 (月)

関西本線 百濟驛 (百済駅:くだらえき)

現在は、「百済駅」(くだらえき)と言えば、JR貨物の貨物専用駅で、客扱い業務はしていませんが、かつて、関西本線には、天王寺駅と平野駅間に、百濟驛」百済駅)という無人駅(仮停車場)が存在していました。

明治四十二年(1909)4月1日~昭和38年(1963)9月10日まで

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門柱のバックに見えるのが、百済貨物駅の新しい駅舎  (駅舎というのか

梅キタの再開発で、百済の貨物輸送が増えてきました・・・ 電化されたし)

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昭和20年(1945) 終戦頃から、休止扱い百濟驛は、昭和38年(1963)9月10日をもって、完全に廃止となり、同年 昭和38年(1963)10月1日開設の、貨物駅の名称として、「百済駅」の名が引き継がれることとなりました。

その後、東住吉区今林地区に、昭和39年(1964)11月20日 大阪市中央卸売市場東部市場が開設されました。

当時は鉄道輸送が主流でしたから、市場内に、貨物支線の 百済市場駅」が、昭和39年(1964)11月24日に開設されました。 (昭和60年(1985) 廃止)

ちなみに、平野駅~天王寺駅間が高架化されたのが、下り線が昭和42年(1967)2月28日で、上り線が、9月28日だったようです。

その後、昭和48年(1973)10月1日に湊町~奈良間が電化されました。

昔は、蒸気機関車が、湊町(現在のJR難波)まで走っていましたよ・・・・・・

さらに、宅地化が進んできて、天王寺駅~平野駅間に、平成元年(1989) 新駅として 「東部市場前駅」が開設されました。

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高架軌道上に無理やり造った感のある駅舎 (実際ホーム幅も狭いし・・・)

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廃止後の駅名をスライドさせたために、本来客扱い駅で使用していた、百済駅が、貨物駅の名称に・・・

貨物駅で使用していた、百済市場駅が、東部市場前駅となって客扱い駅の名称になるという、それぞれ逆になったという、珍現象が起こってしまいました・・・

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昭和7年の地図より (一部拡大) 今川と鳴門川が25号線を越えても、平行に流れてるし、駒川の流れも、奥村橋方向ではなく東側(画像右方向)に流れていて、現在とはかなり違います  杭全の交差点(かつてはロータリー)もありませんね・・・

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現在の、百濟驛跡  木製枕木を利用した、木柵が当時の雰囲気を感じさせますねぇ

無人駅で、待合用の小屋みたいなもんしかない仮設駅のようなもんやったそうで、朝夕のみ、1時間に1~2本くらいの汽車が停車していたと言うようなことを聞いたように思います・・・ (たしか) 

扱いが、仮停車場やったからそんなもんでしょねぇ・・・

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今でも高架橋の名称は、「新在家」です・・・  平野郷散郷の一つで、現在の今林や桑津や杭全地区のかつての名ですワ・・・

この高架橋の所在地は、東住吉区桑津1丁目になりますが、これより北側(画像奥側)は、生野区林寺4丁目になります

おしまい

2012年1月24日 (火)

鳴戸川改修之碑

大阪市立今川小学校のそばに、鳴戸川改修之碑が建立されています。

今川公園グラウンドと、今川霊園、今川福祉会館の隅にあって、目立ちませんから、地元の人でも、知らない人が多いと思います。

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まず、鳴戸川と言われても、??の人が多いでしょう・・・  名前も徳島っぽいし・・   

それもそのはず

現在では、今川の二股の1つ、右コース側(東側)になっているからです。

確かに、現在では、中野町公園で、2つに別れて北上して流れ、白鷺中学校を越えた所で、また今川に合流していますからね・・・

でも改修って、護岸工事や、浚渫(しゅんせつ)工事、拡張工事を、したのでしょうか

それが違うんですね・・・ ヾ(*A`)ノ

鳴戸川は、本来は、今川とは、全く別の系統の川で、現在の東住吉高校のあたりの川や田んぼの水が集まり、北上して、西に向かい、今川と平行に流れて、生野区あたりで今川に合流して平野川に接続する川でした。

でも、旧鳴戸川沿岸部は、土地が低くて、排水が悪く、度々の水害に悩まされていたのです。

そこで、昭和二十八年二月に、平野散郷土地改良区を結成して、大阪市に陳情し、昭和三十二年度より、改修工事が実施されました。

工事完了を記念して、昭和三十六年十月に建立されたものなのです。

(今川の改修工事は、昭和二十九年に完了しています

そう、現在とは、別のところを流れていたのです。 ヾ( ̄0 ̄;ノ そうなの・・

碑のある、今川小学校のあたりで言いますと、校庭の、1/4くらい西側は、今川町ではなくて、平野西脇町でした。w(゚o゚)w

町の境界が、旧鳴門川だったので、こんな区分けになっていたのです。

でも、この平野西脇町という地名と区分けは、昭和49年7月22日に、東住吉区から、分区して平野区が誕生した時に、消滅しました。

東住吉区なのに、平野が付くと、ややこしいからです・・・・

そうなんです・・  昔は、ここが、平野郷 散郷(さんごう)の西の端だったと言う訳です。

今川から西側は、田辺町より広がった町で、東側は、平野郷までほとんどが田んぼや、畑でした。 

特に、今里筋(当時は、森小路大和川線)より平野郷までは、そうでした。

散郷というのは、飛び地のようなもので、田んぼの小屋が、やがて家に、集落になったような感じです。(全てじゃないでしょうが)

平野郷には、4つの散郷がありました。  その4つとは、今林村、新在家村、今在家村、中野村 の4つで、現在の、今林地区、育和杭全地区、今川地区、中野地区 (現 地名とは別)です。

今川小学校の、講堂(現在の体育館/プール)のあたりまでが、平野郷の一部やったということです。

ちなみに 今川小学校は、昭和27年(1952)に開校しました

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現在の 今川小学校体育館   西側から、東方向(平野郷側)の画像です

小学校内は、普段 立ち入りはできません・・・

古い地図と、航空写真から見てみましょう・・

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地図は昭和4年モノの一部で、航空写真は昭和49年モノの一部です

このあたりは、今川より西(田辺側)よりも2mくらい土地が低ので、昔は、田んぼや畑と空き地ばかりでした。 

町のはずれだったので、今川霊園(墓地)が造られたのでしょう。 (明治の頃にはすでに墓地はあったようです)

地図の、新鳴戸川は、こんな直線やないのですが、パソコンでは、あきまへん、書けましぇん・・・ 

下の方は何故か途切れるし・・  (手書きの方が、よっぽど早いワ

灌漑、治水目的やさかい、人工的に直線的な川になりました

田辺から、来る道(現在、近鉄今川駅高架をくぐってくる道)が右上に上がってるんは、今川町(今在家村)を通り、平野郷に続く道やからなんですね・・・

地図も、まだ東住吉区やのうて、住吉区ですしねぇ・・(=゚ω゚=;)

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碑の裏には、経緯が刻まれてあります

木や、看板に隠れてしもて、存在すら気付かない・・・ ω`)ショボーン

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現在の鳴戸川です 護岸を鉄板とコンクリートで固めて、昔より、幅を狭くしています。

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南方向の画像  画像左が今川小学校で、右が今川グラウンド及び今川公園(旧百済公園)ですワ

今川公園も、20年くらい前までは、百済(くだら)公園って言うてました・・・

(・oノ)ノ 大昔は、この辺りにも、渡来人がようけ、居てはったんでしょうね・・・

今川は、1級河川で、鳴戸川は、2級河川やったと思うたケド ちゃうかな

おしまい  o(_ _)o ぺこ

2011年12月18日 (日)

平等橋 今川

東住吉区を流れる、今川に、平等橋という名の橋が架かっています。

この橋の上の道は、八尾街道にあたり、八尾から、平野郷、中野、長居、住吉大社までの道でした。

その集落ごとに、その地点を中心とした呼び名で呼ばれていたようですが、平野郷的には、東は住吉道と呼ばれていました。

平等橋の平等は、かつてこの地が、平等院領であったからです。

平安時代、杭全庄は、摂関家所領でした。 

摂関家というのは、摂政、関白に任ぜられる、公家の家柄のことです。

鎌倉時代に入り、杭全庄は、平等院所領になり、その後の大阪城落城により、徳川氏の直轄地となり、大名に給与された後、明治となりました。

詳しくは、また別記事で取り上げるかもしれません・・・ イツノコトヤラ・・・

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橋自体は、昭和45年架橋らしいのですが、かなぁ~り リニューアル工事がされているようで、欄干などは、平等院をイメージしたようなつくりになっとります・・

昔はどんなんやったか、記憶がない・・・ 普通の橋やったと思うんやケド・・・

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枯山水のような流れをデザインした、凝ったつくりです・・・

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ええ時代やったからこんなデザインでもOKやったんでしょう・・・

今やったら、どこにでもある、ごく普通ぅ~の橋になってたと思いますワ。

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ニャンコは、NTTの通信回線の上を渡ります・・

わたっていい??  と・・ とってる なんかきんちょうするにゃぁ・・・・・・

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平等院鳳凰堂画像は、ウキペディアより  (10円硬貨で有名)

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地図は、昭和四年のものの一部 画像は、昭和23年(1948)米軍撮影 航空写真の一部

昔は、平等橋の所で川が三つ又になっていました。(合流していました) 

中央部が現在の今川本流ですね (地図では、+1,8と書かれている横の川)

他の2本の川は、廃川となり埋め立てられています・・・

地図上の、点線+1,2 表記があるのは、平等堤で +1,2mの高低差があるよ ということです。

平等堤は、ここ平等橋から、今里筋のパチンコ屋さんを斜めに東住吉高校-郵政官舎-旧シャープ住宅-教育大付属中グラウンド南-辰己池・北池(常磐会短大・常磐会学園大)まで続いていました。

何のためかというと、喜連川(廃川)の氾濫から、大切な荘園を守るためです。

喜連川は、現在の喜連あたりから、東住吉総合高校(旧工業高校)正門前-今川の緑橋付近まで流れていました。

+1,8の方は、今川堤です 這い上がりの堤・嫁そしりの堤とも呼ばれていました。

それは、また別記事で・・・  そのうち・・ そのうちε-( ̄ ̄)┌ ダミダコリャ…