カテゴリー「大念佛寺」の記事

2013年2月18日 (月)

小林一茶 句碑 大念佛寺

大念仏宗総本山である、大念佛寺の大門横に、句碑が建立されています。

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誰の句碑かといいますと、あの有名な 小林一茶(こばやし いっさ)宝暦十三年(1763)-文政十年(1828)の句碑なんやて

一茶は信濃国:しなののくに(現在の長野県)の生まれで、25歳のときに、俳諧(はいかい)を学び、寛政四年(1792)30歳の頃より、36歳まで、俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊してはったんや・・・

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ここ大念佛寺に来たのは、寛政七年三月二十七日 一茶 三十三歳の時でした。

春風や 順禮ともか ねり供養  一茶

「俳句と署名は小林一茶真筆「一茶紀行」より採択」

ここに融通大念佛寺と云ふあり練供養のありしと見えて其の橋がかかりあり

春風や順礼共がねり供養

一茶 三十三歳の寛政七年三月八日、讃岐観音寺を発った一茶は、丸亀から瀬戸内海を倉敷・下津井へ出、赤穂・姫路・高砂を経て十八日大坂の黄華庵升六宅に着いた。

二十七日天王寺を詣り吟行しながら平野を経て藤井寺(葛井寺:ふじいでら)・誉田八幡(誉田八幡宮:こんだはちまんぐう)へ向かった。 この時大念佛寺を詣でた際に詠んだ句である。

平成十年中祖法明上人六百五十回忌記念事業としてこの碑を建立す。

説明用の碑より (一部加筆)

発起人は、過去記事 「平野郷町最後の町長 杭全神社」にも登場された、吉村鉄雄さんや・・・・

大念佛寺では、今でも、毎年5月1日~5日まで「万部おねり」が開催されてますワ

一茶のおっちゃんも、見てたんやぁ~

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石碑の裏側です  普通のブログやったら、裏側なんか紹介せぇへんのやろけど、このブログはちょ~っと普通やないから・・・・・

俳句の世界では有名やったけど、相当の女性好きやったようで、50歳で結婚、4人の子供は、幼くして亡くなり、妻とも死別・・・

62歳で再婚するも、夫の高齢に嫌気がさして離縁・・・・

64歳で再々婚・・・・

脳卒中で58歳の時に半身不随となり、63歳の時に言語障害になっても、交合の意欲だけは失わへんかった言うんやからスゴイ人や・・・・

ということで、気が向いたときだけ描く、ネコ三昧 脳内いめぇじイラストォコナァ ぱちぱち

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ホンマにこんなんやったん         知らんっ!!

そういえば、ISSAとかいう人も、婚約解消したり、女性アイドルに手を出して、業界から抹消されたんかも・・・  (よう知らんけど)

おしまい

 

2012年8月17日 (金)

大念佛寺 三勇士精忠塔

融通念佛宗 大念佛寺の片隅に、「三勇士精忠塔」というものが建立されてあります。

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年配の方は、ご存知でしょうが、若い方なら知らない人が多い この 三勇士についてのお話です。

この石碑が建立されたのが、昭和七年(1932)五月十五日

三勇士とは、いったいどんな人たちだったのでしょうか

それは、昭和七年(1932)二月二十二日 上海事変の際  中華民国上海郊外で、敵陣である廟行鎮(びょうこうちん)に敷設された鉄条網を爆破突破すべく、大日本帝國陸軍の工兵3名が突入、破壊筒もろとも爆死し突破口を開き、軍神とされたというものです・・・・・

3人は、久留米の部隊 帝國陸軍独立工兵第十八大隊に所属していた、一等兵3名で、江下武二さん 北川丞さん 作江伊之助さん と言いました。

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大阪朝日新聞掲載写真  ウィキペディアより

昭和初頭の日本は、強国ロシアに勝った後で、軍国主義真っ只中でした・・・

しかし、日本は、島国の小国 資源の乏しい国です・・  欧米列強と肩を並べるためには、アジア、南太平洋の島々を植民地化する必要がありました。

しかし国際連盟の目もあり、国としても大っぴらに事を起こすことはできませんでした・・・

ところが、「関東軍」は違いました・・・・  過激派集団だったのです・・・・・・・

昭和六年(1931)には、満州事変を起こしました・・・ 

南満州鉄道の線路を爆破し、中国側が行なったとしたのです・・・ (自作自演)

その後昭和七年(1932)には、上海事変を起こしました・・・・・・・ (これも自作自演)

満州事変後の排日運動が盛んになってきた頃、当時排日の拠点であった、三友事業公司という会社に、川島芳子(男装の麗人で有名)を通じ資金を渡し、日蓮宗の托鉢僧5名を襲撃殺害を指示し、1名死亡させ、他も重症を負わせました・・・

その後、捜索と憲兵隊を強制突入させ、武力衝突が起こるようにしたのです・・・・・・ (ヒドイ)

どちらも、関東軍高級参謀板垣大佐の仕組んだ、ワナやったんです・・・・・・

その後、戦争となりましたが、第十九露軍という部隊は、抗日思想が強い部隊で、帝國海軍陸戦隊2000名は苦戦しました・・・

日本軍は、慌てて、上海派遣軍1万7千名を増援することになったんです。

その増援部隊が、帝國陸軍金沢第九師団と、今回の3名が所属の独立工兵第十八大隊というわけです・・・  

(時代背景から、やっと本題に戻った・・)

第十九露軍は、市街地に塹壕を設営し、各所に鉄条網を築き、機関銃で応戦したために、日本軍の死者は相当なものになったようです

その鉄条網を爆破突破すべく、工兵隊の出番となりましたが、午前5時ごろ、煙幕の中、第一班(班長以下35名)は次々敵弾に倒れていきました。

煙幕が流されてきたため、第二班班長の伍長は、破壊筒を仕掛けてから点火したのでは間に合わないと判断

点火した状態で突入するよう命令しました。

破壊筒とは、約20kgの爆薬を竹や藁で包んだ、手製爆弾のことで、4mほどの長さがあり、2本の導火線に、マッチで点火するという粗末なものでした・・・・・

第一組の 先頭 北川一等兵に弾が当たり、3人とも転倒してしまいました・・・・・ (第二組は点火に手間取って遅れていました・・・・)

すでに点火していたために、戻ろうとしましたが、班長はそのまま突入しろと命令しました・・・ 

(え~~~~~ 鬼っ  でもそれが戦争という現実なんやね

その後、鉄条網に到達した時に、破壊筒が爆発してしまい、3名とも戦死してしまいました・・・

二月二十四日の新聞各紙には、この記事で溢れました

爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京日日新聞が、「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞が使用した名称です。

大阪朝日新聞には「これぞ真の肉弾!壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」の文字が躍りました・・・

この美談により、誉れの三勇士として、3人は軍神化されました・・・・・

本当は、この3名の他にも戦死者は出ていました。

二組の3名も入れて六軍神としてはという意見もありましたが、却下されました。

この爆死した三名のみが、二階級特進の伍長に昇進し、記事に感動した全国の購読者から陸軍始まって以来の弔慰金が寄せられました・・

映画や、歌舞伎、浪曲としても興行されました。

軍歌として 与謝野晶子さんの旦那さんの与謝野鉄幹さんも作詞されています・・・・

巷では、饅頭や、菓子、定食のメニューから、髪型、着物の柄まで流行りました・・・

グリコのおまけや、のらくろにも登場し(爆弾四勇士)、異常なほどのもり上がりとなりました・・・・・・・

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美談として、教科書にも載りました・・・・・・

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そして  東京 芝の青松寺に爆弾三勇士の銅像が建立されました

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現在は、芝 青松寺に一部と、長崎 三柱神社に一部残されています

軍部は、この戦争を少しでも美化・正当化するためと、戦意高揚の美談として

新聞社は、購読者獲得のため、映画界も興行収入増のため・・・

事実こそあれ   つくられた  国民的英雄やったんです・・・・

ホンマは、導火線を、短く切断しすぎたという、上官の初歩的なミスやったようです・・・

どうやら 戦場ではこの手の事故は、特に珍しいことやなかったんやて・・・

ええ宣伝に利用されてもうたんです・・・・・ ιДυ) なんちゅうことを 

一方

3人の母親は突然「軍神の母」となり、一躍脚光を浴びることとなりました・・・

新聞社の招きで、上京、上海事変の映画を見せられ・・・ 

行く所、行く所  取材と、一目見ようと  人・・ 人・・・・・

荒木貞夫陸軍大臣から表彰を受けました

そやけど   うれしいはずあれへん・・・

たとえ、手脚が無うなってでも、帰って来て欲しかったはずです・・・・・

でも  それを言うことすら出来ない時代やったから、陰でどれだけ泣きはったやろなぁ・・・・・・ (u_u)

どこに行っても、新聞、雑誌の取材で、何度も聞かれて 「名誉です」と答えなあかんかった、胸の内は、どんなに辛かったやろう・・・・・

残された、御遺族の方たちも、ホンマの犠牲者やったんです・・・・・・・

戦争で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします・・・・

その後  何の流行でもそうですが、三勇士フィーバーもすぐに去ったそうです。

一番してあげんといかん事は、ホンマは、そっとしておいてあげることですワ・・・・・・

大念佛寺に建立された、三勇士精忠塔は、他の戦死者を弔うための、忠魂塔とともに建立されていました。

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三勇士精忠塔・忠魂塔画像以外は、ネット上からお借りしました

おしまい

 

2012年8月 3日 (金)

大念佛寺幽霊博物館

平野町ぐるみ博物館というのが平野郷にはあります。

それぞれの展示をされている、個人博物館で、開館日や休日・時間などは違います。

その中でも、8月 第4 日曜日に 一年に一度だけ開館するのが、

融通念佛宗大念佛寺 幽霊博物館です。

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以前は、待たんでも入れたのに、最近は大勢の方が来られてます・・・Σ(・ω・ノ)ノ

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展示物は、以前の記事でもご紹介した、「亡女の片袖」「亡女の香合」

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          亡女の片袖

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        亡女の香合                     土佐光芳 筆

画像は 融通念佛宗 大念佛寺様 HPより

それと、幽霊の掛け軸 十二幅も見ることができます。

累怨霊の図・平知盛亡霊図・姑獲鳥図・菅公怨霊図・更屋敷お菊亡霊図・囲碁師亡霊図・仙台高尾亡霊図・小幡小平次亡霊図・笑い般若図・柳の下幽霊図・野晒し図・佐倉宗吾怨霊図

暑い夏だけの、年に一度の一般公開やさかい

怖くない人は、見に来てね ~(°°;)))オロオロ(((;°°)~

開館時間は、午前9時~午後4時までです

混雑時は、10~20分待ちになるかもしれまへんから、水分摂って待っててね・・・

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このテントで、順番待ちです  大きな作業用扇風機を回してくれてました・・

ちなみに 博物館内は撮影禁止です

大念佛寺  大阪市平野区上町1丁目7-26

(2012年度は、8月26日が開館日)

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おしまい

2012年5月12日 (土)

大念佛寺 賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

融通念佛宗総本山 大念佛寺本堂の外陣に、仏像が安置されてあります。

(気付かんかった

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その御名を、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と言います。

愛着をこめて、「おびんずるさん」と呼ぶことの多い、撫仏(なでぼとけ)です。

普通の仏像は、触ることは出来ませんが、撫仏という仏像は、自分の身体の悪い所と同じ所を触ることで、悪い所を治してもらうことが出来ると信じられている仏様のことです。

そやけど、何でこんな堂外の外陣にいてはるんやろねぇ

お釈迦様の弟子で、十六羅漢のお一人やから、かなりエライ人のお像やのに、なんで本堂の内側に安置されてへんのでしょうか

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はい・・・  それには理由があります・・・・

そのことが、大念佛寺の説明板に詳しく書かれてますワ

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賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

賓頭盧尊者は梵名を賓頭盧頗羅堕尊者(びんずるはらだそんじゃ)といい、中インド跋蹉国拘舎弥城(ばっしゃこく くしゃみじょう)の大臣の子として生まれた。

家業は、婆羅門(ばらもん)十八姓中の一つである医者であったが、仏弟子となりのち十六羅漢の一人となった。

日本での賓頭盧信仰は、賓頭盧の家業が代々、医者であることから、賓頭盧さまの像を撫でると、病気が治り、病気にかからないとして、信仰が集まり 撫仏(なでぼとけ)とされるようになった。

賓頭盧尊者の伝説として次のことがある。 それは、釋尊(しゃくそん)が舎衛国(しゃえいこく)にいられたとき、給弧独園(ぎゅこどくおん)の長者の娘が釋尊と、その弟子たちを招じて供養したいと申し出た。

各弟子たちは喜び、神通力をもって、供養先の富楼那跋陀那(ふるなばっだな)に行ったが、賓頭盧だけは、神通力で、逆に供養地を山もろともに自分の方に引き寄せるという悪戯(いたずら)をして、釋尊から「お前は、神通力で悪戯をしたが、その罰として決して永久に涅槃を取ることはならん、永くその身で人天(にんてん)の為に供養し、世の中の大福田とならねばならぬ。」と戒められたため、未だに涅槃ができなく、現在でも人間の病を治したり、語黙不動の中で大法を説教していて、人寿が七万歳に及ぶとその罰が許され 経を誦(じゅ)し、舎利塔の周を繞り入涅槃すると、雑阿含経に説いてある。

説明板より

つまり、自我(われよし)の行いをしたとして、涅槃を許されず、人々を救済することで許されるということのようです。

ですが、を与えたのは誰で、誰が許してくれるのでしょうか??

お釈迦様??

う~ん ネコ三昧はそうは思っていませんで・・・

この世で行なった行為は、反射して起こるので、よい行いをしたら、よいことが、悪い行いをしたら、悪いことが、起こるんやと(プレゼントされる)と思います。

ただ、時間が限定の、この世で、その反射が来るとは限りませんケド・・・(lllД゚)

普通の悪戯なら、たいがい、この世の人生中に反射が来て、頭を打つような気付きの事柄が訪れますが、神通力で、山ごと動かすほどの悪戯をしたのなら、この世の時間的には、数万年は、返済にかかるでしょうねぇ・・・・・・

お釈迦様が、を与えたのではなく、そのくらいかかるさかい、遊んでんと、人の何十倍何千倍、功徳を積みなさいって、言うてはるんやと思いますワ

それこそ  弟子に対する愛情やと思います・・・

今までの人生で、たいがい悪いこと、嫌なことをしてきてしまった ヤバイ・・・

と感じた方も大丈夫です・・・  説明文にもヒントがあるように、よい行い、善行を積むことで、上書き(打ち消し)がされるよって、お釈迦様が教えてくれています。

たとえ、十六羅漢の一人であっても、自分の撒いた種は、自分が刈り取ることになるのです・・・・

ですから、許すも許されるも本来は無くて、打ち消されるだけなんだと思います。  

あえて 許すのが誰かと聞かれれば、それは自分と言えそうでんなぁ・・・

今生きている間は、あなたが担当者にすぎず、魂的には、生き通しなんですワ。

必ず帳尻は、どこかで必ず合わされます・・・ 負債が多いと思った方も、今からでも、遅うありまへんで・・・

生きている間だけが、そのチャンス期間ですワ・・・ 死んだら(肉体が無くなったら)固定された世界やさかい、支払いはでけへんのですわ・・・

せやさかい、何とかして、この世に生まれて、今回こそは返済するぞ~ って・・・神様に宣言してやっとの思いで来たのにネ・・・

ψ(`´)ψ うひゃひゃ

でも、生まれるときに、記憶は消去されるから、せっかくの人生を返済どころか、負債(業・ごう)をにする人も多いでんなぁ~ (アカンやん

はい ここで高齢 じゃなくて恒例 ネコ三昧 脳内イメージイラスト

どんどん ぱちぱちぃ~

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おびんずるさんですぅ~  なんか、像とは違うねぇ~  意識を集中すると、長ぁ~い眉毛にギョロッとした目、大きな鼻 こんな感じやったんですワ・・・

モンタージュ写真でも、悪役商会の人やおまへんで・・・ ( ̄Д;;

本当は、もう少しっぽいイメージやったんですけど、それはインドの人やからかなぁ  

そういえば、各地にある、おびんずるさまの像は、赤い像が多いねぇ・・

伝えによると、お酒好きで、隠れて飲んでいたそうやから、結構、破天荒な人やったんかもしれませんねぇ~  

酒っ それでいん??  まあどっちでもええか・・・

2012年4月28日 (土)

万部おねり 大念佛寺

毎年5月1日~5日の期間に、融通念佛宗総本山 大念佛寺にて「万部おねり」が開催されます。

正式には、万部法要  「阿弥陀経万部読誦聖衆来迎会」 と言うそうですが、二十五菩薩来迎を中心に、阿弥陀経一万部が読経されるからです。

二十五菩薩様をはじめ、稚児行列や、献花献茶、各・講の皆さんが本堂脇にしつらえた橋を渡って本堂に入堂されます。

これは、極楽浄土に往生するさまを表しているんやそうですワ

こういう法会を、来迎会(らいごうえ)と言うんやそうです。

明和年間(1764~72)からこのような形になったそうですから、えらい昔からやってはったんやねぇ~

いつごろからか、菩薩様の衣装も新しくされましたが、昔は、少々傷んだ感じで、怖かったようです・・・・・・(;д;)

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本堂の周りの橋は、こんな感じです・・

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13時から始まりますので、お昼ご飯は食べてきてねぇ~

14時くらいから、二十五菩薩様がお渡りされます

15時くらいまでですワ・・・ 晴れると、暑いから、日焼け止めや、熱中症対策はしっかりして来てねぇ~

)2012年の万部法要は、天候不順により、どうやら、速いペースで進行しています  

雨天時及び強風時には、本堂回廊にて行なわれていますので、特に早まるようです・・ 13時30分ごろに、二十五菩薩様がお渡りされることもあるので、早めに来たほうがいいみたいですね・・・

期間中は、周辺の道路は一部通行止めになったり、交通規制がありますので、なるべく、公共交通機関をお使いください

介護者などがおられて、車でお越しになられる必要のある方は、午前中とか、少し早めに、コインパーキングを見つけて入れておかないと、近くは一杯になります・・・ (期間中は、通常時の参拝用駐車場は閉鎖です 路上駐車は、期間中集中取締りをしています

交通機関

JR大和路線(関西線)平野駅 南口(改札出て右側)さらに、右階段降り、道路沿い(線路に対して直角方向)に約5分南に歩くと、国道25号線があり、信号を渡るとすぐです(信号なしで徒歩約7分)

大阪市営地下鉄谷町線 平野駅 1番又は2番出口を上がり、左側にある内環状線(479号線)をに歩き、道路反対側にあるスーパーライフの角を右折してすぐ左側が大念佛寺 (信号なしで徒歩約10分)  

大阪市営バスは、国道25号線側の、JR平野駅筋というバス停が最寄です (信号なしで徒歩約3分ですが、交通渋滞の場合は到着時間が読めません)

(歩きなれてる方は、各予測時間より、2分くらい早く着きますが、混雑している場合は、もう少しかかることもあります)

JR平野駅と市営地下鉄平野駅は、かなり離れていて、全く連絡されていません

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地図は大念佛寺HPより

詳しくは、大念佛寺HPをご覧ください  http://www.dainenbutsuji.com/

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GW行くとこ無いなら、見に来てね~ (´`)ノきゃはっ

2011年3月 6日 (日)

大念佛寺本堂

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本堂

昭和十三年に竣工した総欅(けやき)造り銅版葺きで、棟行(南北)三十九、一メートル、梁行(東西)四十九、八メートルの大阪府下最大の木造建築である。

平成十五年文化庁登録文化財指定。

堂内には、正面宮殿(くうでん)に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、その両脇に御岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之助(にいろちゅうのすけ)作の多聞天像、八幡大士の極彩色の木像がが立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(しょうおうだいし)(良忍上人りょうにんしょうにん)、中祖法明上人(ほうみょうしょうにん)の木像を安置している。

また左右余間に再興大通上人(だいつうしょうにん)の倚像(いぞう)(椅子に腰をかけ、両足を前に揃えた像)と、旧本堂(寛文七年 一六六七 建立 明治三十一年焼失)の建立願主舜空上人(しゅんくうしょうにん)の木像を安置している。

外陣(げじん)いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治三十六年に再製したもので、約千二百顆の欅材からできており、一つ一つの珠に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている。

百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。

説明板より

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2011年3月 1日 (火)

大念佛寺 幽霊の片袖

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元和三年(1617)のこと、奥州生まれの熱心な観音信者が、西国三十三ヶ所観音霊場の巡礼を志し、五月下旬に郷里を立ち、六月三日に箱根に辿り着きました。

箱根権現を参拝して、休憩していると、そこに女性の幽霊が現れ、私は摂津住吉の松太夫の妻で、今日身まかり(他界し)、この山の地獄で苦しみをうけており、早く極楽往生できるよう、摂津平野の大念佛寺で回向(えこう)を賜りたい旨、故郷の夫に伝えてほしい  しかしながら、その証が無ければ、夫も信じないだろうからと、懐から着物の片袖と美しい香盒(こうごう)を取り出して、手渡しました。

手渡すと、幽霊はいつの間にか、姿が見えなくなりました。

信心深い巡礼は、各地の霊場を巡り、七月七日に住吉の、松太夫宅に辿り着きました。 そこでは仏事が執り行われている最中でした。 なんでも、去る六月三日に妻が亡くなり、今日は五七日に当たるので法要を行なっているとのことです。

松太夫に面会した、巡礼は事の仔細を語るものの、にわかには信じられない様子です。  そこで、手渡された証拠の二品を取り出すと、松太夫は、手に取るやいなや、言葉も無くただ涙するばかり・・・  しばらくして、松太夫が口を開き、これらは、まぎれもない妻の愛用の品、早速、追福をせねばと、巡礼に礼を述べ、もてなしました。 

その夜、妻の生涯を夜明け近くまで語り、翌朝、巡礼は再び旅立ちました。

松太夫は、亡き妻の言葉通り、早速、大念佛寺に回向を願い出ました。

話を聞いた、道和上人は、心より哀れに思い、その日のうちに、大衆を集め、阿弥陀如来の前で、億百万遍の法要を行いました。

明け方まで念仏を唱えていた上人は、法要を終え、脇息(きょうそく)にもたれて、微睡(まどろ)んでいました。

するとその時、紫雲に乗って蓮華の上に立つ女性が現れ、合掌して、「上人のお力添えにより仏のお迎えを得て、極楽往生できました」と礼を述べ、西の空へ消えていったのでした。

上人は、松太夫にこのことを伝えると、それはもう大変な喜びようであったということです。

現在でも、大念佛寺には、幽霊の片袖と香盒は、寺宝として保存されていて、毎年八月の第四日曜日だけ、幽霊博物館として、幽霊の掛け軸と共に一般展示公開されています。 (拝観無料) 

この物語を「片袖縁起」 享保九年(1724) という絵巻に記され、こちらも年に一度公開されています。

この絵巻は、二本伝わり、一本は元禄期のもので、それを元に享保九年に作られました。

享保本には、詞書と絵の揮毫者は、京都宝鏡寺徳厳尼(とくごんに)と土佐光芳(みつよし)と記されています。

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        「片袖縁起」 享保九年本                    幽霊博物館の模様

幽霊の片袖 香盒 片袖縁起の画像は、大念佛寺HPより

2011年2月12日 (土)

大念佛寺 不許葷酒入山門 標柱

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大念佛寺南門、旧古河藩陣屋門の傍らに、不許葷酒入山門という標柱があります。


この意味は何でしょうか

葷酒の山門に入るを許さずと読むそうで、肉や生臭いもの、酒は修業の妨げになるので、持込を禁止しますという意味です。

五葷(ごくん)と言って、陰陽五行(木・火・土・金・水 もっかどこんすい)に基づく、ネギ類であるネギラッキョウニンニクニラアサツキ これを禁じるということです。

辛味や臭気の強い五種の野菜は、五臓を傷付け、五戒(ごかい:殺・淫・妄・盗・酒)となる恐れがあるためだそうです。
刺激物であり、ある種の興奮作用や、感受性が高まり、心が乱れるのを防ぐために禁止したのでしょう

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南門の石碑は、入のところで一度折れたものを、修繕しています。

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大念佛寺大門の傍らには、不許酒肉五辛入山門という標柱がありますが、

五辛(ごじん) ネギラッキョウニンニクニラノビルのことで、意味は同じです。

2011年2月10日 (木)

大念佛寺南門-古河藩陣屋門

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この門は現在の平野小学校所在地にあった、古河藩(こがはん)の陣屋門で、明治の廃藩後平野小学校の表門として昭和二年まで使用されていたが、小学校新築拡張にともない、保存の要望があって昭和三十七年一月、ここに移築された。

平野郷の藩政時代を示す唯一の遺構であり、その門扉は樟(くすのき)の一枚板である。

江戸時代の平野郷は、およそ元禄七年(一六九四)を境にして前期は幕府領、後期は大名領地であった。

とくに正徳三年(一七一三)下総国古河藩主、(しもふさのくに) 本多忠良(ほんだただよし)に給与されて以来、明治二年の版籍奉還(はんせきほうかん)までの一五六年間は、松平候、土井候と大名は代わったが古河藩付所領であった。

陣屋は土井候の古河藩時代に設置され、平野郷をはじめ、摂津近在にある古河藩所領の行政事務を取り扱っていた。

説明板より

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樟の一枚板の扉板 金物はそれなりに傷んでますが、全体的にはしっかりしています。

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門の横には、門番小屋があります。 通用門とその裏側です。

下総国古河藩は、現在の茨城県古河市に存在した藩で、古河城がありました。

摂津国東成郡平野郷の、現在の平野小学校あたりに、大坂夏の陣では、徳川家康の 本陣があり、末吉氏の屋敷があった後に、古河藩の陣屋ができました。

小学校校舎新築により、ここ大念佛寺に移築され、南門として利用(保存)されています。

南門も、大門も、午前五時より開門、午後五時に閉門されまぁ~す (・w・ )

 

2011年1月27日 (木)

大念佛寺 山門

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宝永三年(1706)、第四十六世法主大通上人(だいつうしょうにん)の建立による。 棟行二間(3,6m)、梁行九尺(2,7m)、両脇に七尺(2,1m)の壁落ち屋根を付けている。

大源山(だいげんざん)の扁額は、霊元天皇の皇女で京都宝鏡寺(ほうきょうじ)の尼門跡徳厳尼(あまもんせきとくごんに)の真筆である。 明治三十四年、平成十五年の両度、大修理を施した。

大通上人はこの門を融通無碍門(ゆうずうむげもん)と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげていくという融通念佛の功徳を称揚した。

門、扁額(へんがく)、棟札(むねふだ)の三点が大阪市の有形文化財に指定されている。   説明板より

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立派な山門をくぐれば、大きな本堂が見えます。 春は桜、秋にはいちょうと、景色が変わります。 

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