カテゴリー「文化・教育・学校」の記事

2012年9月16日 (日)

「島唄」という曲が伝えたいこと

運動会の季節が近づき、ここ平野小学校でも、練習が始まっています。

そんな中、風に乗って聞こえてくるのが、「島唄」という歌

子供たちが、元気に歌っています。

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1992年に、THE BOOMというバンドが歌った曲で、1993年に、かなりヒットしたから、一度は聞いたことがあると思います。

元々の、島唄というのは、奄美地方・琉球地方の各地区で昔から唄い伝えられてきた、民謡のことなんですが、それとはチガイマス・・・

今回は、「島唄」の歌詞に込められた、本当の意味についてのお話デス

え゛っ (・_・)....?  もう知ってる (´Д⊂ 泣くなぁぁぁあ

・・・・・・・  では  知らないということにして、進めまーす・・・ (ノ_)ぐすっ

まずは、歌詞から・・・

島唄                       作詞 作曲 宮沢和史

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た

くり返す悲しみは 島渡る波のよう

ウージの森で あなたと出会い

ウージの下で 千代にさよなら

島唄よ 風に乗り

鳥とともに 海を渡れ

島唄よ 風に乗り

届けておくれ 私の涙

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ

ささやかな幸せは うたかたの波の花

ウージの森で 歌った友よ

ウージの下で 八千代の別れ

島唄よ 風に乗り

鳥とともに 海を渡れ

島唄よ 風に乗り

届けておくれ 私の愛を

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ

このまま永遠(とわ)に夕凪を

島唄よ 風に乗り

鳥とともに 海を渡れ

島唄よ 風に乗り

届けておくれ 私の涙

島唄よ 風に乗り

鳥とともに 海を渡れ

島唄よ 風に乗り

届けておくれ 私の愛を

:;;;:+*+:;;;: 意味 :;;;:+*+:;;;:

災厄を告げるという でいごの花が咲き 沖縄(うちなー)に米軍がやって来た

でいごの花が咲き乱れるように 激しい攻撃は続いた

寄せては引く 波のように 攻撃は繰り返された

さとうきび畑で あなたと出会い

さとうきび畑の下のガマ(自然洞窟)で 永遠の別れをした

島唄(琉球民謡)よ 風に乗り

死んだ 島民(しまんちゅ)の魂と共に 海を渡れ

島唄よ 風に乗り 本土(やまと)に伝えておくれ 沖縄の悲哀を

沖縄は ことごとく破壊され 守備隊(日本兵)と島民の多くは死に

ささやかな幸せは、波の花のごとく はかなく消え去った

さとうきび畑で 歌いあった あの人と

さとうきび畑の下のガマで 永遠の別れとなった

島唄よ 島民の魂と共に 海を越えて

島唄よ 風に乗って ニライカナイ(天国)へ伝えておくれ あの人に 私の愛を

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永久に 平和を 戦争のない世界へ


歌詞の意味は、こんな感じです (ネコ三昧的に書きましたが)

失恋のハナシとかじゃないんです・・・・ (つд⊂)エーン

続けて  朝日新聞からの転載です

たった一人のために

「島唄」は、たった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

91年冬、沖縄音楽にのめりこんでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。

そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き伸ばすための「捨石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。

捕虜になることを恐れた肉親同士が殺し合う。

極限状態の話しを聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている。

このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。

この対比を曲にしておばあさんに聞いてもらいたいと思った。

歌詞の中に、ガマの中で自決した二人を歌った部分がある。

「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。

「島唄」にはレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。

二人は本土の犠牲になったのだから

(みやざわ・かずふみ。 66年生まれ 歌手)

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画像は ネット上からお借りしました

はじめは、標準語で歌われた、オリジナルバージョンを、全国発売するつもりは無かったそうです。

しかし、様々な沖縄の人々、特に喜納昌吉氏から、「沖縄音楽の真似事だと批判されたとしても、魂までコピーすれば、もうそれは、コピーなんかじゃないんだ」という言葉に背中を押されて、全国発売されたそうです。

魂を込めた曲は、その後、本当に海を越え、アルゼンチンでも、カバーされヒットしました。

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画像は ネット上からお借りしました

沖縄は、時間が停止したまま、戦争が終わっていないのかもしれません・・・・・

痛みを抱えたままのように感じます・・・・

そんな沖縄の県花が、デイゴです

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画像は ネット上からお借りしました

昭和42年(1967)に、県民の投票により決まりました。

デイゴの花が満開の年は、台風の当たり年だとか、家や石塀を倒すことから、災厄を告げる花とも伝えられていますが、何より強い花です。

まるで、島んちゅの人たちのように

血のように鮮やかな赤色は、強さの表れのように感じます。

言葉に出来ないほどの、苦しみ・悲しみを越えて来たからこそ、優しくなれる

本当の強さとは、優しいことだと、語りかけてくれているようです。

今回の記事も、平野郷とはあまり関係ない内容でしたので、次回は平野郷のお話にしようと思います・・・ (あてになりませんが)

おしまい

 

2012年2月22日 (水)

平野小学校 二宮金次郎像7(まとめ・シリーズ最終回)

平野小学校に残されている、二宮金次郎像のお話から、人物像の話に進んだのですが、これ程長編シリーズになるとは、思っていませんでした・・・

(どこが平野郷を歩こうやねんと言われそう・・

とは言え、シリーズを通して、ぜひ読んでみてくださいね。

(カテゴリーは  文化・教育・学校 に入っています)

そもそも、金次郎さんを取り上げようと思ったのは、金次郎像が、各地で撤去されているという記事を目にしたからです。

破損など、危険ならば仕方ありませんが、薪を背負い、本を読んでいる姿を子供が真似したらどうするんだとか、軍国主義的だとか・・・ そんな意見が多いと聞き、残念に思いました。   

戦時中は、「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」との社会風潮に、金次郎さんの「倹約」が軍部に利用されてしまいました・・・   

戦争とは無関係の被害者を責めているのが残念で・・ これも、詳しく知らないからだと思い、記事に取り上げることにしました。

平野小学校でも、かつては校門を入ったすぐの所にあった金次郎像が、今では、体育館裏で、遺物扱いです・・・・・・ (仕方がないのかなぁ・・)

でも、そもそも、何故 金次郎さんが、像になったのでしょう

勤勉で、親孝行で、倹約で・・・  でも本当は、それだけではなかったのです。

金次郎さんは、日本各地の農地改革や、立て直し(仕法)を行ないましたが、評価されるべきは、この仕組みつくり(ハード面)よりも、ひっ迫する状況下で、リーダーとして決断、行動していく、決断力・行動力であり、指導力であり、地を這うような地道な、人々の意識改革 「心の改革」にあったと思います。

農民という弱い立場にありながら、武家主導の差別社会で、それでも、どん底から世の中を改革していく・・・  ちょっとやそっとの信念ではできません・・

本当に  「思いやりの心」 に溢れた方だったのでしょう。

そんな金次郎さんを、特別な人だと言う人がいます。

金次郎さんだから、出来たんだと言う人もいます。

あなたの現在の立場が、主婦かもしれませんし、パートや、派遣労働者かもしれません・・ 係長や課長などの、中間管理職かもしれませんし、はたまた経営者かもしれません・・  いえ、教職員や、研究者、技術者、公務員かもしれません・・・   休職中? 求職中・・ 年金生活なのかもしれません・・・・・・・

でも、今のあなたの心の中には、必ず金次郎さんがいます。

あなたの、金次郎さんを発揮出来るか、出来ないかは、あなた次第なのです。

シリーズ中のイラストを描く時に集中していると、不動明王の背後には、観音様の存在を感じていました・・・

だた、存在が大きすぎて見えませんが・・・ (細胞1個側からは、身体全体が見えないですよね・・ そんな感じ)

神仏に愛されてはったんやなぁ~と 感じました・・・・

   観音様はどこから来られたかって??

はい   金次郎さんの「心の内側」から来られたんです・・・

何とか観音という、場所や、像に、「~なりますように」「~お願いします」と祈願や、すがる方が多いですが、そんな方の前に、観音様は現れませんし、願いなど聞いてはくれません・・・ (キッパリ)

何でか言いますと、観音様は、「助けるものを助ける神仏だからで、外からやってくるわけでは無いのです。

金次郎さんのように、「人々を救いたい」という思いに応えるのです。

それぞれに与えられた、立場、日々の暮らしの中で、心の扉(天の岩戸)を押し開いて、あなたの金次郎さんを発揮していきましょう。

そうしていると、あなたの心の内から、観音様(あなたの内なる神仏)が現れ、頼まなくても、観音力が発揮されます。

ですが、自分のためや、神仏を使いっパシリにする 「お願いします」「~成りますように」などの祈願、願望は、交換条件があり、正神は動くことはありません。

そのような交換条件で動くのは、魔の存在であり、後の請求書が怖いです (神仏を装っていますが・・・

かつては、日本製品は、海外からも高い評価を受けていました。

でも今は、アジア、中国などの安い労働力の国の製品に押されています・・・

何故、日本の製品の評価が高かったかと言うと、品質は当然ですが、製品に、「思いやりの心」が溢れていたからだと思います。

一見ムダにも思えることでも、使う人の立場に立って、工夫や行程を加え、長く愛用してもらえるような、 相手を思いやる製品 どこにも無い発想の製品、真似の出来ない製品だったのです。

今では、使い捨て、大量生産、大量消費で、大半はどこでも作れるレベル内の製品、ユーザーの顔が見えにくい製品に・・・

おかげで、国内の製造業の、空洞化を招きました・・・・ 

そりゃ、コストの安いところに流れますワ・・・ ( ̄Д

もうそろそろ気が付かないといけないと思います・・・

産業界・経済界・教育界・福祉や医療・政治だって、国レベルのことだって・・・

その頃には、金次郎さんも、ずっと 見直されているでしょう。

今回のシリーズ、長くなりましたが、尊徳さんのお言葉で終了させていただこうと思います。  

「私の願いは 人々の心の田の荒廃を開拓して 天から授かった善の種を育ててまた まきひろめることにある 心の荒廃を一人がひらけば 土地の荒廃が何万町あろうと 恐れるものではない」

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ネコ三昧  脳内イメージイラスト 二宮尊徳さん

初の長編シリーズでしたが、最後まで見ていただき、ありがとうございました。

このシリーズの内容は、様々な記事や資料、番組から引用・参考にさせていただきました

次回からは、いつもの、ゆる~い 記事になると思います  ああ疲れた・・・

ではまた (ε)ノ~~  

おしまい

 

2012年2月18日 (土)

平野小学校 二宮金次郎像6(人物像・天保の大飢饉編2)

天保の大飢饉により、小田原で、飢えに苦しむ領民を救済すべく、金次郎さんは、領内の状況を詳しく調査しました。

食べる物にさえ困っている者に、食料を与え、藩主忠真公から預かった、壱千両を、三百七村に配分しました。

藩の米蔵を開放した、金次郎さんですが、備蓄米も無尽蔵にあるわけではありません。

考えた、金次郎さんは、領民を三つの段階に分けました。

一、食べるものも、金も足り、ある程度の余裕がある者 これを 無難

二、食べるもの、金も、なんとかなるが、不足しつつある者 これを 中難

三、食べるものも、金も 無い者を 極難

そして、極難の中にでも、さらに生命の危険度の高い者を一箇所に集め、一日に、一合の粥(かゆ)を配給しました。 (現代の難民キャンプのよう)

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「身体はやせるだろうが、決して餓死する心配はない 寝たければ寝ていてよい 空腹をこらえることを仕事と思ってがんばってくれ」

金次郎さんは、生きる希望すら失いかねない者たちに、安心感を与えるため、こう、声をかけました。

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しかし、金次郎さんの胸のうちは複雑でした・・・  今はまだ寒さの厳しい二月  麦が実り、山菜が採れだす四月まではまだ二ヶ月もあったのです・・・・・

極難の者も増え続け、備蓄米で乗り切ることは、到底不可能でした・・・

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日本各地では、空腹に耐えかねた百姓などが、裕福な商家などを襲う、「打ち壊し」が多発していました・・・  (それでも お米は、ある所にはあったのですね・・)

(大坂でも、大塩平八郎の乱が起きています)

金次郎さんは考えに考えました・・・ そして、無難と、中難の代表者を集め、こう言いました。

少しでも余分の金や米があれば、たとえ一文一合でもよいから提供してほしい」 と・・・

金次郎さんの計画はこうでした。  少し余裕のある者から、出資をつのり、藩内に基金を設け、そこから村単位に金や米を無償で貸し与えるという斬新なものでした。

しかし、代表者たちの顔色が曇り、反論が起きました・・・・

「貧乏人に、金を貸しても、返すはずが無い」  と・・・・・・・・・

金次郎さんは言いました

「代々同じ村に住み、同じ水を飲み 同じ風に吹かれた仲間ではないか  貧乏人の中には怠けてそうなった者もおり 腹が立つだろうが それでも なお 銭一文を施し 米ひとすくいを与えるのが人情というものだ  未来の実りを信じて 今こそ飢餓を救うのだ」

「おのが子を 法(のり)とすれば 学ばずとても 道に到らん」

自分の子を育てる時には、損得も考えずに育てるであろう その心と同じだ

人の道を説き、長い目で返済をと・・・   金次郎さんの熱い想いに心を動かされた村人たちから、次第に、金や米が集まりだしました。

中には、金も米も無いが、それでも何か役にたちたいと、自分で編んだ草鞋や、大切にしていた晴れ着さえも提供したといいます・・・・。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

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この基金  徳をもって 人に報いる 「報徳金」 と名付けられました

最終的には、百六十四か村 八千八百九十戸におよび 総額四千両というとてつもないものとなったのでした。

天保八年四月 畑に麦が実り始めました  小田原領民 四万三百九十人の命が救われたのです・・・   

金次郎さんの活躍のお蔭で、日本全土で数十万人の餓死者を出した、飢饉にに対し、小田原領内では、一人の餓死者も出なかったといいます・・・・

この時 金次郎さん  五十一歳

小田原領の救済が一息ついた頃の、天保八年三月十九日(1837年4月23日)、一番の理解者でもあり、協力者でもあった、藩主 大久保忠真公が亡くなられます・・・

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すると、藩内に金次郎さんの仕法に反発する者が、大勢現れるようになってくるのです・・  元々、百姓を政治に参画させるなど・・・と反対されていたのですが、忠真公の意向で、文句が言えませんでした・・・  それが今では「百姓ばかりがよくなって、我々藩士の暮らしは一向に良くならない」と不満を爆発させたのです・・・

農民と違って、体面を重んじる武士は、いらぬお金を使っていたからなんですケドね・・・ (禄(ろく:給与)は下がり、物価は上がりは事実ですが)

農民からは、仕法を希望されるものの、藩の協力は得られなくなり、藩全体の仕法は完成することができませんでした。

天保十三年(1842) 金次郎さん五十六歳のとき、江戸幕府の老中 水野忠邦に突然呼び出され、幕府の役人に抜擢されました。

そのころ、金次郎さんは、尊徳(たかのり)と名乗るようになるのです。

「そんとく」と言うのは、後の人たちが、敬意を込めて、尊い、徳のある人という意味を込めて、“そんとく”さん と言うようになったんです。

話を 戻して・・・

始めは仕事は、利根川沿いの印旛沼から江戸への分水路を造るという仕事でした。

氾濫による、周辺の田畑への被害を無くし、水運の水路としての役割を持たせるというものでした。

幕府は何度も試したものの、誰も出来なかったので、金次郎さんにやらせようとしたのです。

とても大掛かりな大工事ですから、地元住民の協力なしには、出来ないと考え、急げば、必ず失敗すると、周辺の貧しい村の立て直しからが必要だと感じました。

計算上では、十四万両で出来ると試算しましたが、幕府はこの計画を受け入れはしませんでした・・・  事を急ぐ幕府は、今までのやり方でやるよう指示し、水野忠邦が退いたこともあり、二十五万両使ったにもかかわらず、途中で終わり、ムダになりました・・・  (現代でもよく聞く話でんなぁ~)

その後 金次郎さんには、仕事という仕事を与えられずにいました・・・

弘化元年(1844)四月 金次郎さんに、日光御神領の土地を使えるようにする計画を策定せよとの命を受けます。

久しぶりの仕事に喜び、現地に調査に行こうとする金次郎さんに対し、幕府は現地を見ないですぐに見込書を出せと指示してきたのです・・・ (そんな無茶な!)

金次郎さんはきっぱりと断りました  実際の土地を見ないのに、立案など不可能だったからです

金次郎さんもだんだん歳をとりますし、身体は一つしかありません・・・

そこで、自分の手を離れたとしても、自分の意志を受け継ぎ、誰でも実施できる、「仕法書」 仕法ひな形を作成するのです。

長男 弥太郎さんをはじめ、二十人を越える門人たちの協力で、二年三ヶ月の月日を費やし、全八十四冊にもなりました。

仕法ひな形が完成した直後の、弘化三年(1846) 小田原藩の仕法中止が伝えられました・・・

そればかりか、尊徳さんが小田原領民と交流することはおろか、墓参りすら禁止されてしまいます・・・

役人の間では、尊徳さんの考えなど到底理解できなかったのですネ・・・・・・

藩主 忠真公のお心に応えることが出来ず、尊徳さんは、忠真公の墓前で涙を流したそうです・・・

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世田谷の 忠真公の墓所

その後 尊徳さんは、東郷陣屋(栃木県真岡市)に一家で移り住みました。

烏山藩、下館藩、相馬藩などの仕法と、この東郷村十四か村の仕法と、多忙を極めていました。

嘉永六年(1853) 日光仕法が命じられましたが、この時六十七歳の尊徳さんは、重い病に侵されていました。   それでも、気力で抑えていました・・・

自分の足で現地を歩かねば、判断できぬと、駕籠を断り、けわしい山道を歩きました・・・

その無理もたたって、病気が再発してしまうのです・・・・ 

いよいよ、病が重くなったとき、門人たちを呼び、こういいました。

「決して ことを急いではいけない。  決して あきらめてはいけない。」

「自分が死んだら墓石など立てずに土をもり上げ、そのそばに松か杉を一本植えておけばよい。   必ずこのようにしなさい。」

そして 安政三年(1856)十月二十日 今市で生涯を閉じました 享年七十歳

その後 門人たちは、これほどの先生の墓が無いのは、さみしい、申し訳ないと、墓標を立てました。

「この大馬鹿者がっ!!」と しょうがないやつらだと笑っているような気がします。

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日光市 今市にある 尊徳さんの墓  盛り土部分は、当時のままやそうです

尊徳さん亡き後も、弥太郎さんをはじめ、優れた門人たちが、尊徳さんの意志を継ぎ、各地で人々を助けたといいます。

尊徳さんが生涯立て直しした数、600  凄すぎです (=゚ω゚=;)

次回は 最終章 まとめです  (そろそろ飽きてきた

画像は イメージ画です ネット上からお借りしました ( ̄ω ̄;)

つづく

2012年2月14日 (火)

平野小学校 二宮金次郎像5(人物像・天保の大飢饉編)

天保四年初夏 農家で昼飯に出された、茄子(なす)の漬物を食べた金次郎さんは、異変に気がつきます・・・

夏に採れた茄子なのに、種になる部分が多く、秋茄子の味がしたのです・・・

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慌てて、稲の様子、道端の草まで、つぶさに調べました。

すると、いずれも、日光の照射不足により、葉先が弱っていました。

季節は夏になろうとしているのに、もう秋の状態であり、冬に向かうかのような状態だったのです・・・

以前古老に聞かされていた、「天明の飢饉」の時と、同じです・・・

この先、必ず飢饉(ききん)が訪れると、金次郎さんは確信しました。

そこで金次郎さんは、桜町三か村の農民に言いました。

「今年は凶作になるから、畑一反に稗(ひえ)を植えなさい  その分の年貢米は出さずともよい」 と

農民の中には、稗なんぞまずいものを・・とか、余計な仕事を増やしてくれるとか、なんぼ金次郎さんが偉いといっても、収穫まではわかるまい・・・ と渋々の者もいましたが、稗を蒔くことになりました・・・

しかし、その年は、気温が上がらず、各地で稲が壊滅し、飢え苦しむ人がたくさん出たのです・・

村では、稗を蒔いていたお蔭で、飢えに苦しむ人は一人もいませんでした。

しかし、今後、さらにひどい飢饉が来ると、確信していた、金次郎さんは、冷害に強い、稗・粟(あわ)を多く栽培するように指示しました。

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画像左 稗(ひえ)  画像右 粟(あわ)

一人当たり、五俵を目標に、雑穀を蓄えさせました・・・

節約を推進した上で、雑穀類を備蓄させたのです。 (この時代にスゴイ

やがて、金次郎さんの確信した通りになりました。  

暗雲が低く立ち込め、日光を遮り、夏だと言うのに、肌を刺すような北風が吹き荒れたそうです。

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米作中心だった、東北地方を中心に、数十万人の人が亡くなりました・・・

これが世に言う「天保の大飢饉」です

桜町領八百人は、一人の餓死者を出しませんでした。

そんな矢先の天保七年(1836)十二月 小田原藩主 大久保忠真公より、小田原領民の救済にあたれ との命を受けるのです・・・

小田原でも、深刻な状況になっていました。 飢える民 その数 四万人・・・・・

一刻も早く、被害を食い止めねば、大変な事態になってしまいます。 藩の備蓄米を開放しなければななないと考えた金次郎さんは、米蔵開放の許可を得るため、江戸の小田原藩邸に向かいました。

忠真公は病に臥せっていたので、家老に意見を訴えました。

ところが、いつまでたっても、藩は動きません・・・  何度掛け合っても、審議が繰り返されるばかりでした・・・

皆 責任を回避し、決断できずにいたのです・・・

結局 二ヶ月もの間、金次郎さんは、江戸で足止めを喰うこととなります・・・

業を煮やした、金次郎さん  藩邸に乗り込んで言い放ちました

「政治が行き届かず 飢饉に及んで民を死にいたらしめるとしたら 一体なんと言って 天に謝罪するのか」

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ネコ三昧 脳内イメージイラスト 金次郎さん怒りの訴え

ようやく、許可を得た金次郎さんは、小田原城を目指しました。

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天保八年(1837)二月 米蔵開放の許可を持ち、小田原城に入りました。

出迎えた、家老から出た言葉は、「まず弁当を食べてから」という言葉でした・・・

今何が起こっていて、民がどれほどの苦しんでいるかを全く理解していない言葉でした・・・

金次郎さんは、あきれ返って、即刻米蔵の鍵を渡せと、詰め寄りました。

今度は、蔵の前に、蔵役人が立ち塞がります・・・・・・・・

殿 直々の書状が無いと、米蔵は開けられない」 と

使いを出して、書状を手にするのには、往復四日かかります・・・

一刻を争うこの事態に、融通が利かず、我の職務・範疇でしか事を進められない役人たち・・・

金次郎さんは言いました・・

「それならば、書状が到着するまでの四日間 我々役人一同も 飢えた民同様に断食すべし」

有無を言わさない、金次郎さんの迫力に  米蔵の扉は開かれるのです。

ネコ三昧 脳内イメージ画像以外の画像は、イメージ画像として、ネット上からお借りしました ,(_ _),

しつこいようですが  つづく

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金次郎さん カッコいいっスよぉ~ 男の中の男だす  おまけ画像でした・・

 

   

2012年2月11日 (土)

平野小学校 二宮金次郎像4(人物像・桜町領仕法編)

小田原藩主 大久保忠真(ただざね)公の再三の依頼に、金次郎さんは、一家で、下野国(しもつけのくに)桜町領に移住する決心を固めました。

文政六年三月十三日 早朝にも関わらず、大勢の人が見送りにきたそうです。

金次郎さんは、、役人として赴任するのですが、五石二人扶持の名主格としてでした。

まず、金次郎さんは、村々の家を一軒ずつ回り、病人が居ないか、困ったことは無いか、家族構成、田畑の状況など、細かく調査していきました。

朝の暗いうちから、空に星が輝く頃まで、村中を回ったそうです。

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村の実体が明らかになってくると、金次郎さんは、良く働き、心根のよい者を表彰し、鍬(くわ)・鎌などを与えました。

「真面目に働けば認められる」 やる気を起こさせる「心の改革」でした。

開墾作業をする人の中に、木の根や、切り株ばかりを取り除く、六十歳過ぎの男がいました。  他の者は、「木株掘り」「根っこの藤助」と言って馬鹿にしていました。

ある時、金次郎さんは、この男を呼び、こう言いました。

「お前さんは誰も働こうとしないところで働き、村に尽くすことを真剣に考え、邪魔な木株を片付けてくれた だからこそ皆の作業がはかどったのだ」

こう言うと。十五両もの大金を手渡し

「だが、お前さんも、もう歳だ どんな仔細があるかは知らぬが、ここいらで隠居して、家族のために孝行したらどうだ」と・・・

藤助さんは、涙を流し、喜んで、故郷(くに)に帰っていったそうです。

また  村人の間で、人の三倍働くと評判の男がいました。

しばらく男の仕事振りを見ていた金次郎さんは、突然男を叱り付けました。

「そんな激しい労働で、一日もつはずが無い お前は人が見ているときだけ働いているのだ」

嘘をついたり、怠けたりする者には、容赦しませんでした。

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米の収穫量を増やすためには、農民を増やさなければいけません。  農家の次男・三男や、移住者を優遇して、農業人口を増やそうとしました。

また、用水路や、堰などの整備を急ぎました。

ところが、元からの農民の不満や、境界、水争いが起きて進みませんでした。

農民からは、役人の手先と警戒され、藩の役人からは、百姓上がりのくせにと、妨害されたのでした・・・

八方塞の金次郎さんは、悩み、江戸に用事に行くといって姿を消してしまいました。

その間に、金次郎さんは、どうしたら、改革を進めることができるのかを考えて、成田山に断食祈誓しようと参詣していたのです。

宿に泊まろうと、しましたが、六尺(182cm)の大男で、72両もの大金を所持していたので、不審がられました。 宿の主人は、江戸に身元確認の使いを送って、藩士であることを知り、成田山の照胤僧正に報告しました。

その縁で、断食を許されることとなったのです。

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僧正は問いました  なぜ わざわざ 苦行の中に身を置くのか・・・

金次郎さんは答えました

「幼き時に両親を亡くし貧困のどん底を経験しましたが、子供たちにはこのような思いをさせることなく、貧困もなく、病に苦しむこともなく、元気に暮らしていけるように、貧困を救済し、富めるものになるよう、国を豊かにし、飢餓に対しこれに備えるよう、社会の仕組みを変える方策を立て、人々を救えるように祈願するものです」

「私には私心は一切無く、物井村に来て七年になりますが、村人は疑いを持っております。 君命のために国家復興の策をたて人々を救済することだけを考えております」

「村人を救済できないならば、不動明王の炎に身を焼かれてもよいのです」

と言われました・・・  この言葉に、僧正は、「その誠意をもって人に接すれば、どんな悪魔や鬼が障害になろうとも、事は必ず成就するであろう、しかし絶対に自分のやり方に従わせようとすれば、害あれど益は無い。  ただ自分のやり方に賛同し協力してくれるのを待てばよい」 と諭されました・・

一方 金次郎さんが居なくなった村では、村人の心の変化が起きていました

「二宮様は、わしらのために、誠心誠意指導してくれたんじゃ」

人は失って初めて大切なことに気が付くのです・・・ (ノ_)

江戸の小田原藩邸に、戻ってきて欲しいと、嘆願書を提出します。

村の代表者十四名の署名がありました・・・

自分たちのために、成田山で祈願していると知った村人は、金次郎さんを暖かく出迎え、厚い信頼関係で結ばれました。

立て直しは、一気に進み、約束の十年後には、約二倍の年貢米を収めることができました。

このような立て直しを仕法(しほう)と言い、金次郎の考えに沿った仕法を「報徳仕法」と呼びました。

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その後、次々に大事件が起きてきます が つづきます・・・

画像は、ネットより イメージ画像としてお借りしました

2012年2月 7日 (火)

平野小学校 二宮金次郎像3(人物像・小田原から桜町へ)

伯父の家に、世話になって三年、いつまでも甘えているわけにはいきません。

一日でも早く独立して、家を再興し、離れ離れになっている兄弟を呼び戻すという、目標がありました。

金次郎さんが二十歳になった時の、文化三年(1806)生家の近くに小屋を建てて、独り立ちし、こつこつ貯めた銭で、田地9アール程を買い戻します。

そんな矢先の、ある日、末の弟(13歳年下)の、富次郎が亡くなってしまいます・・・ (/) 

金次郎さん  二十一歳のことです

まだ幼かった弟二人、友吉(後の三郎左衛門)と富次郎は、母よし の実家である、川久保家に預けられていました・・

若くして、両親を亡くして、一家離散を経験し、さらに、弟の死・・・

言葉では表せないほどのつらさだったでしょう・・・・・

それでも、家の再興と、残された弟と暮らすために、来る日も来る日も、働きました。 しかし、並大抵のことでは、家の再興は到底不可能であると認識していました。  

その間に、母の実家も、だんだん傾いてきていたんです・・・・ (;д;) 

幸い体格のよかった金次郎さんは、人が嫌う、荒地の開墾に力を入れました。

いざ開墾できると、畑を耕すのは、人(小作人)に任せて、自分は薪(たきぎ)を集めて、小田原城下まで売りに行ったり、小作収入と、貯めた銭の一部を貸して、利息を得て、その頃には、母の実家を援助することができるようになりました。

この時代は、土地には重い年貢がかけられていましたが、農産物などを売った利益や、雇われて働いて得た賃金には、はかからなかったのです。

金次郎さんは、時間当たりの労働で何が有利か、ちゃ~んと理解していたんですね。

勉学にも励み、文化八年(1811)二十五歳の金次郎は、小田原藩の家老 服部家の若党になり、息子の教育係を務めるようになります。

名主宅や、武家宅に奉公するのには訳がありました・・  

それは、新しい教育に触れる機会が多かったからです。

ちなみに、若党というのは、武家の奉公人の中では武士扱いの身分でしたが、従(かち)より身分が低く、足軽や、中間、小者よりも身分が上でした。

(武士扱いの、最下層が足軽になりますが、この足軽の中にも、お役の上下がありました)

服部十郎兵衛の三人の息子の教育係りとして、読書の間、離れず、漢学の先生の所にも送り迎えでお供し、自分は庭に回って障子越しに講義を熱心に聴いていました。 (エライ人や)  

息子たちより、農民の金次郎さんの方が、身に付いていたのかもしれません・・・

しかし、この服部家は、家老職にあるとはいえ、財政状態はよくありませんでした・・・

表向きの石高(こくだか)は千二百俵でしたが、藩の財政もひっ迫しており、実際は、四百三俵しかありませんでした・・・  当然、それでは足りませんから、返済計画もないまま、商人から借り受け、その額はなんと、二百五十両にもなっていました・・・ (米七百俵に相当)

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この時代は、気候も安定せずに、年貢米も少なくなっていっていました。

当然、藩の財政状態も悪くなり、藩士の給料が半分以下に下がっていきました・・・ ヾ(.;.;゚Д゚)ノはんぶんっ~

逆に、便利な世の中になるほど、商品の種類や量も増え、それを商いする、商人は、利益が出た時代だったのです。(豪商の出現)

服部家の方は、相変わらず厳しい財政状況が続いていました・・・

せやけど、武家はメンツがあるので、見た目の体裁を整えんとあきまへん

家老の家でさえこんな感じですから、他の藩士も同じように、大変でした・・

そこで、金次郎さんは、考え抜き、「五常講」というしくみを作り上げ、藩主忠真公から、1500両もの融資原資を取り付けました。

現在で言う、信用組合です・・・ 多少余裕のあるものが、金を預け、困っている者に貸すというものです。 当然貸した者は、利息がつくというものでした。

信用組合の発祥はドイツだそうですが、それよりもかなり前に、日本ですでに始まっていたのです・・ 文化十一年(1814)金次郎さんまだ二十八歳の時です

五常とは、仁・義・礼・智・信の、人として大切な心がけのことで、:人としての優しさ、思いやり :借りた者が正しく返済すること :貸してくれた人の恩義に感謝をすること :借りたお金を返済すべく、創意工夫をし努力すること :約束をきちんと守るということ  です

金次郎さんは、中島きの さんと結婚し所帯を持ちました。 三十一歳の頃です。

その後、服部家の立て直しを依頼されるのです・・・  金次郎さんは悩みました・・・

自分は百姓の身、相手は、ご家老様だ・・・ よほどの覚悟が無ければできません・・・  それに、新婚の妻を独り残して、服部家に行くことになる・・・

悩んだ末に、五年という約束を取り付け、引き受けることにしました。 金次郎さん三十二歳の時です。また、日ごろの行いを、藩主 忠真(ただざね)公から表彰を受けました。

江戸幕府の老中になった、忠真は江戸に向かう前に、領民の中から、特に心がけの良い者を表彰することとなり、栢山村で唯一選ばれたのです。

話は戻って・・・

金次郎さんは、服部家の収支を記録した帳面を、何年もさかのぼって調べ上げ、どこに問題があるのか、どこに改善する点があるのかを調査し、模擬計算しました。

そこで、収入に見合った枠(分度:ぶんど)を定め、この分度を守り、徹底した倹約が出来れば、5年で借金を返済できると告げました。

まず、使用人に、今後五年間の食事は、ご飯と汁物に限ること、衣服は木綿に限ること、油の節約などを細かく指示していきました。

例えば、釜にススがつくと、燃費がよりかかるため、ススを落とさせ、それを買い取ったり(駄賃)しました。 そして、努力し、節約して余った分の薪を買い取ると約束しました・・・

うまいこと、アメと鞭を使い分けはったんやと思います・・ 必要の無いことは、させへんかったそうやから、ほんま徹底してはるワ・・・・(゚゚;

徹底した、倹約です。 せやけど、ただのケチケチ作戦や無かったんです。

無駄を無くし、そのものが持つ特性や、良さを引き出し、活かしはりました・・・

そやけど、そんな毎日眼が回るくらいの忙しさの中、悲しい出来事が起こりました・・

長男の徳太郎が生まれるも、ほどなく死んでしまうんです・・・

独り田畑を守っていた、きのさんの不安と悲しみは、耐え難いものだったことでしょう・・・

今で言う、ウツ状態になりはったんやないかなと思います・・・

しかし、すべてをやめるわけにいきません・・・ 最善の判断として、離縁となりました。  想像ですが、金次郎さんは、家のことを全て任せっきりだったことを侘び、療養をかねて、里に帰したのだと思います・・・

その後、三十四歳になった金次郎さんは、岡田波子さんと再婚します

この浪子さんは、相撲部屋のおかみさんタイプの人だったらしく、二人の子供(弥太郎・文子)を育て上げ、後に門人たちを世話するのです。 きのさんは、ある意味、今で言う、お嬢さんタイプやったんかもしれませんね・・・

次に、金次郎は、農民を苦しめていた、年貢米を計る、(ます)を統一するように、藩主 大久保忠真(ただざね)に願い出ました。

この頃は、年貢を徴収する枡は大きめ、給与の米を計る枡は小さめ という二種類の枡を使い、さも同じもののように見せかけていたということが横行していたのです。

役人が、この枡が、お上の御用枡だと言えば、農民があれこれ言う余地すらなかったのです・・・  もし言おうものなら、斬り捨てられてもおかしくありません・・・  藩士にしても、文句を言おうものなら、首となり、明日から浪人生活となるのが分かっていたので、言えませんでした・・・

藩単位でなくても、小役人単位で、勝手に枡を変えて、差益をネコババしていたりしたこともあるのかもしれません・・・ ( ゚д゚)

現在では、有り得ませんが、基準の物が無かったのです・・・ヾ(*A`)ノうそ

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一斗枡(画像は金次郎の改良新枡ではありません 明治42年には全国的に丸型の枡になったようです)

服部家の方は、一旦持ち直したものの、また支出が増えてきました・・・

これは、家老の服部十朗兵衛が、江戸の藩主のもとに勤めることになったからです・・  (ちなみに最終的には、35年間で完済したそうです)

余談ですが、この頃、三十四~三十五歳に「金次郎」に改名しているんです ( Д) ゚ ゚

そうなんです・・ それまでは、金治朗だったんです・・・ (このブログ上でもややこしいので、金次郎で通していましたが・・・)

はい    また  話を戻してと・・・ ( ̄) 

この働き振りに、小田原藩主 大久保忠真が目をつけました・・・

忠真には、大きな悩みがあったのです・・  それは、分家に当たる、下野国桜町領(しもつけのくにさくらまちりょう) (現在の栃木県真岡市(もおかし)・二宮町周辺)の旗本 宇津家の所領地の状態が思わしくなく、このままだと、本家にも被害が及ぶことを懸念していてのことでした。

そこで目を付けたのが、立て直しで、一躍評判になっている、金次郎でした。

思い切って、この金次郎に立て直しをさせてみてはどうか? 

今まで何回も役人を派遣してみたが、ことごとく失敗に終わっていましたから、何か手立ては無いものかと、忠真は考えていたのです。

金次郎さんに、お城に出頭するように命じました・・・

そこで、桜町領の建て直しを、藩主直々に依頼したのです。

しかし、金次郎さんは、断りました・・・・・・・ (´-д-`) いやでぷー

自分は百姓の身ですから、周りの者たちがおもしろいわけがない・・・

あれこれ口を挟んできて、うまくいくものも、うまくいくはずがない・・・ というものでした   

(そら、この時代、武士どもが、農民上がりの金次郎さんの指図に従うかっ!!ちゅうねんっ・・・)

それでも、忠真は、再度金次郎に頼みました・・・

少し考えた金次郎は、「分かりました だだし条件がございます」

「今後十年間は、私のやり方に対して、一切の口出しをされないならば、お引き受けいたしましょう」 と答えました

今までの立て直しで、自信があったとかいう人もいてはるようですが、そうやないと思いました。

そりゃ、多少の自信はあったでしょうが、なにより、百姓の自分をここまで信頼してくれている・・・  そのことに対して真正面から応えはったんやと思います。

確かに、断っても、何の罰も無かったでしょう・・・

それでも、藩主の男気に触れて、この人のために、出来るか出来ないかよりも、まず挑戦してみようという気持ちになったんやと思います。

現地を見ないと、判断すらできません。  立て直しのための調査が、八回行なわれました。  約200キロの行程で、行くのに五日かかりました・・

桜町領の村に入って驚いたことに、昼間から、博打に興じ、働こうともしない人たちが大勢いたことです・・  田畑は荒れて、人々はやる気を失っていました・・・ まるで、呼吸を止めたような村だったのです・・・

桜町領の年貢の量は、四千俵でしたが、今の田んぼの状態では、どう見ても、二千俵がやっとの状態でした。

それで、人々は、生きる希望や、楽しみすら感じられない位ほど、生活が荒れ果てていたのです・・・・

二千俵収穫できても、全てを差し出すわけにはいきません。

金次郎さんは、半分の千俵を、農民に、半分の千俵を年貢にと考えました。

十年後には、立て直しで、収穫量も倍になろう、しかしその間は、だんだんと収穫を増やしていくしかないと結論付けました。

そして、殿様に報告しました。  全てを任し、口出ししない約束でしたから、桜町領分 十年間は、倹約と承認されました。

ここから、金次郎さん一家は、桜町領に移住して立て直しを進めることになります   

が   ここで 次回につづきます

今回は文章が多くて、画像が少なかったです・・・ 

画像はイメージとしてネット上からお借りしました ヾ(_ _*)

    

 

2012年2月 3日 (金)

平野小学校 二宮金次郎像2(人物像・小田原編)

前回の続きになりますが、二宮金次郎さんとは、どんな人物で、いつ頃、どんな所に生まれて、どんなことをした人なのか?? 

どうして銅像(石像)にまでなったり、唱歌にまでなったのでしょうか??

名前や、イメージは、誰もが知っているのに、詳しくはほとんどの人が知らない、二宮金次郎さん・・・   実は、とんでもなくスゴイ人だったんです。

これが、後の金次郎さん・・・

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小田原藩の武士であり絵師の、岡本 秋暉(おかもとしゅうき)(岡本祐之丞)いう人が描きはったもんです・・

イメージ通りの人でしたか???

ゴツイ しかも、濃いぃ~ オサンやんかぁ~  と思われた方がほとんどだと思います・・・

それもそのはず、身長が六尺(180cm強)以上あり、(183cmくらいあったのでは・・)、体重が94kgほど、足のサイズが、九寸五分(約28cm) という、この時代としては、かなぁ~り デカイ人でした・・・(゚゚)

二宮金次郎は、天明七年(1787)七月二十三日 相模国足柄上郡栢山村(かやまむら):現在の神奈川県小田原市栢山に、百姓 利右衛門さんの長男として生まれました。

五歳の時の、寛政三年八月五日 風雨が襲い、付近を流れていた酒匂川(さかわがわ)の堤防が決壊し、東栢山一帯の田畑がことごとく流されるという水害が起こりました・・・

金次郎さんの生家は、その当時比較的裕福な中流農家でしたが、田畑が一瞬にして砂礫化(されきか:砂や石がごろごろとした、河原のような状態)してしまい、生活は一変してしまいました・・・

その復興・復旧作業の、心労がたたり、父が倒れてしまったのです・・(;´д`)

それまでも、家の手伝い、農作業に明け暮れていましたが、長男である、金次郎さんの背に更なる、負担が掛かってきました・・・

唱歌の、柴刈り繩なひ草鞋(わらぢ)をつくり、親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し は、この頃の姿を歌っているのでしょう

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金次郎さん十三歳の時、子守の駄賃で貯めた二百文(現在の価値で、千円~二千円)で、売れ残っていた、の苗を買いました????

やっと苦労して、貯めた銭を、松ぅ??  何で???

金次郎さんは、農作業の合間に、酒匂川の土手に通い、調べました・・ 

そして、買った松の苗を、植えていったのです。

いずれ松は大きく根を張り、土手は強固になるだろう・・ 

二度と、あのような不幸な出来事が起こらないように

自分のような、つらい思いをすることのないようにと、1本1本丁寧に、場所を選んで植えていきました・・ (松の苗は、イメージです)

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ネコ三昧、脳内イメージシリーズ 酒匂川土手の金次郎さん

治水のことで頭がいっぱいですが、活きたイイ眼をしています。 

自分のためではなく、人のために、今の自分に何が出来て、何をすべきか・・ 

まだ13歳の子供ですよ・・・ 

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そんな、金次郎さんの思いを知らない村人は、「またあの子来てる」 「毎日川ばかり見とる」 「おかしなことをしている」 ・・・  

「土手坊主」と馬鹿にしていました・・・

当の、金次郎さんには、信念がありましたから、周りから何を言われても平気だったのでしょう・・・

現在の酒匂川の土手の、金次郎の松と呼ばれている松並木

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ほら 見てみぃ・・ こんな立派な松並木になるんや・・ヽ(´`)/

そのほか、農作業に行く間や、作業中も、よく大声で「論語」などを暗唱してはったんやそうで、村人は、何や・・訳のわからんことを叫んでる、アブナイ子供ってことで、「き印の金次郎」と呼んでいたそうですワ・・・

金次郎さんは、中国の思想書である論語の一節に強く感銘を受けたそうです。

それがこの一節

「己に打ち克てば 天下はその徳に従う」

天才と何とかは、紙一重ってよく言うケド・・ 周りの人には理解できひんかったんやろなぁ・・・

( ̄Д;; すごいゼ!! 金次郎さんっ!!

でも  その後、金次郎さん十四歳の時、父利右衛門さんが死去、後を追うようにその二年後に母も帰らぬ人に・・・

復興のために、借金をされていたのでしょう・・

生家はおろか、家財諸道具一切、衣類寝具に到るまで売り払うこととなり、一家離散となってしまいました・・・ (/)

そこで、金次郎さんは、伯父である二宮万兵衛さんのところに引き取られることとになったんです・・・  

この時金次郎少年 十六歳

毎日の作業を終えた、夜に寝る間を惜しんで、書物を読んで勉学してました・・

ある時、金次郎さんは、伯父万兵衛さんに、「百姓には学問は無用じゃ」と・・

そう  行灯(あんどん)を無駄に使うなと厳しく叱られてしまいます・・・

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電気のない時代は、こういった行灯に、菜種油で灯りをとっていたのです。

(実際、使用していた物ではありません イメージです)

無駄だと言われれば、しかたありません・・・ でも、何とか夜に勉学できる方法を考えます・・・  

その後、金次郎さんは、五勺(しゃく)(約90cc)の菜種を借り受け、仙了川の土手に蒔いて、翌春には、七升(12,5リットル)以上の収穫することができました。  享和三年(1803)秋のことです

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隣村の油屋嘉右衛門の店で、油に交換してもらい、夜の勉学に備えたといいます

このことが、「積小為大」(せきしょういだい) (字のごとく、小を積んで、大と為す 物には順序が有り、気を逸り促成を願ってはならぬということ)を実体験する貴重な経験となるのです。

金次郎さん十六歳の初夏、田植えの時期に余った苗が捨てられているのを見て、田んぼを回って、それを集めました。

そして、洪水の時に埋まった水路辺りに水を張り田んぼを作り、植えました。

秋にはなんと、一俵(60kg)の籾がとれたそうです・・・Σ(・ω・ノ)ノ

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翌年は、五俵も収穫できたそうです・・・・・・ (田んぼ画像はイメージです) 

現在その田んぼ跡は、小田原市立報徳小学校 学習田になっているそうです。

(報徳小学校の、報徳は、尊徳さんの報徳思想からきています)

伯父の万兵衛さんは、金次郎さんを早く立派な人間に育てようと、時には厳しく叱ったそうです。

そのお蔭で、金次郎さん十八歳の時、人出に渡っていた、生家を買い戻すことが出来、二十歳で再興の足がかりを掴むまでになりました・・・

金次郎さんは、生涯、万兵衛さんのことを、実父母以上の感謝を奉げたといいます・・・

この辺りまでが、幼少期、青年期の金次郎さんですが、次回は、その後の金次郎さんの活躍に迫りますっ

おたのしみに 

ネコ三昧 脳内イメージ画像以外の画像は、すべてネット上からお借りしたものです・・・

2012年1月29日 (日)

平野小学校 二宮金次郎像1(石像編)

大阪市立平野小学校は、1872年に、学制発布された際に創立された、平野区域で、一番歴史のある小学校で、古河藩陣屋跡地に建てられました。

歴史が古い学校ですので、現在でも、二宮金次郎像が残されています。

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でも、全国的に、この像が撤去されているそうです・・・・ (´;ω;`)

その大きな理由の一つが、現代では、必ずしも模範となるものではないという理由だそうです・・・

像の多くのスタイルは、柴や薪を背負いながら勉学に励むというもので、どうやらそれが、アダになったようです・・・

現代の車社会では、こんなこと真似したら、はねられるわっ ということのようです・・・

この像も、危険防止のためか、上部の像本体と、下部の台座の部分を外して置かれています・・・  

そう  設置していますではなく、「置かれています」なのです・・(ノω)

台座の部分には、昭和十八年三月卒業記念とありますから、この時の生徒さんは、ご健在でしたら、八十歳ほどになられているはずです。

反対側は、「奮闘」の文字がっ 戦時色が表れていますね・・・

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台座の上部はこんな感じ

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今でも、ひたすら本を読んではります・・・ (春と秋の画像です

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昭和40年代は、講堂の横に居てはったんやけど、旧校舎の職員室前の中庭に移動していました。

その後の校舎建て替えで、現在の体育館横に、寂しく置かれることとなったようです・・・。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

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「なかよし」像の左後ろっ・・・  ほらっ

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おったっ そんで、ちなみにこれが、現在の「なかよし」像・・・ はいドンっ!!

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画像では、わかりにくいですが、あちこち傷んでマス・・

金次郎さんの横で、こちらもかろうじて健在です (=´Д=)ゞ

ご注意 小学校内は普段は、立ち入り禁止です

でも見たいと言う方は、国道25号線の歩道橋から見えます。

(ただし、秋~冬~早春期 のみ)

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この像は、石像でしたが、銅像の学校は、金属類供出で、無くなった学校もありました・・・

当時の子供たちには、金次郎さんも、戦地に行かれますと言って、皆で壮行会をして別れたそうです・・ 

金次郎さんは、子供の頃から勤勉だったのですが、この像のように、柴や薪を集める最中も本を読んでいたなんていうことは無かったそうです・・・

?? じゃ、何で日本中に、同じような像が広まったの?? ということになりますね・・

その答えは、幸田露伴という人の書物「二宮尊徳翁」(1891)の口絵に描かれていたからなんです。

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このイメージが、強く残り、像が制作されたと言う訳です。

さらに、その後の国定教科書に、二宮金次郎が、修身の象徴として記載されたことで、さらにイメージが強固なものとなったようです。

石では柴を表現しにくいから、薪になっていたり、髪型や、着物や、踏み出す足の左右の違いはありました。

戦後GHQ(連合軍最高司令官総司令部)が、撤去を命じたと、思っている方がいるかもしれませんが、逆でした。

GHQは、二宮金次郎を、民主主義の先駆者と高く評価していました。

その証拠に、戦後すぐの占領下で発行された、日本銀行券 壹圓札(1円札)の肖像画に、二宮尊徳が描かれています。

昭和二十一年三月発行 日本銀行券 壹圓札

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二宮金次郎 文部省唱歌  作詞・作曲者不明

柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎

骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ
夜なべ済まして 手習(てならい)読書
せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
手本は二宮金次郎

家業大事に 費(ついえ)をはぶき
少しの物をも 粗末にせずに
遂には身を立て 人をもすくう
手本は二宮金次郎

どんなことをした人なのか どんな人だったのか

知っているようで、知らない、二宮金次郎さんの人物像を次回 ご紹介したいと思います。

おたのしみに 

    

 

2011年10月22日 (土)

平野小学校 希望の像

平野小学校校庭には、希望の像という像があります

この像は、大阪市立平野小学校が創立100周年記念の、昭和47年10月に、卒業生より寄贈されたものです。

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この画像を見て、懐かぁし~い・・・ (´;ω;`) と思われる方も多いのではと思います・・ 

(平小卒業生だけでしょうケド・・・  あ 元教職員サンもか・・・)

大正三年に卒業された方たちが、寄贈されました。

先生以下、三十名の生徒のお名前が刻まれてあります。 

当時は、一学級三十人だったのでしょうね・・

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母校創立百周年を迎えて

明治五年八月学制発布された。 不学の人々の多かった永年の寺子屋教育からはじめて待望の義務教育をしかれ十一月三日住吉郡第一区平野郷町の古河藩陣屋跡の泥堂に第一番小学校として誕生した。

当時郷土の人々は何ものにもかえがたい喜びに浸ったことは想像するにあまりある。

この伝統ある小学校に明治四十一年四月私達は木綿羽織袴姿の草履ばきで由緒ある校門をくぐり木造平屋建の校舎に第一歩を印して六年、もっぱら質実剛健を目標に文字通り師弟一体観の上にたって教育をされた恩師の姿がいまだに脳裡から消えない。

大正三年三月懐しの学び舎を去ってはや五十八年古希を越えた今日私達は当時の恩師を偲び希望の像に託し在校生の皆さんへ将来に向かって雄飛されることを切に願ってやまない。

(旧字は現在の字にしています)

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画像左は、大正十四年頃の平野小学校 二階建教室と、裁縫室

写真で見る大阪平野今昔 おもろいで平野より

(当時は杭全裁縫学校がありましたので、その教室(裁縫室)だと思います)

画像右は、大正末期頃の卒業生  平野区誌より

(このころから詰襟の学生服姿が見られるようになったようです)

当時は、こんな雰囲気だったんでしょうね・・・ ヾ(´ε*)ゝ   

くぐった校門は、古河藩陣屋門で、大念佛寺南門として移築保存されています

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 普段は、小学校内には、入れませんのでご注意・・・

お縄になりますぅ モヒャ━━((゜ДUu))━━!!!!!!

 平成22年度 平野郷環濠跡草刈ボランティア作業は 雨天のために、10月29日(土)に延期となりました 29日の皆様のご参加をお待ちしております  ありがとうございます

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2011年5月10日 (火)

含翠堂(がんすいどう)

「平野と申すところ御座候。その地に儒学尊敬の人数輩これあり候。
珍しきことと存じ候。皆々知人になり申し候。その内、三上如幽
(じょゆう)と申す人、ことのほかすくれたる人と申し候。」

元禄期、大坂の儒者 五井持軒(ごいじけん)が、筑前福岡の学者貝原益軒(えきけん)にあてた書簡の一文に記された、三上如幽なる人物は、七名家の一人であり、連歌活動の中心人物でもありました。

その如幽のもとに元禄十年(1697)十二歳で養子として入り、後に七名家、土橋家の家を継いだ、土橋友直(ともなお)が、京都で歌学、儒学、医学を学び、三上家で講義を始めようとしました。

ところが、その頃、郷中は一向宗が盛んで、人々は仏を信じて、簡単には浸透せず、中断することとなりました。 (;´д`)トホホ…

それでも正徳四年(1714)成安栄信(なりやすえいしん)をはじめ、儒学志向する数人が参加して、月に六回会場を持ち回りにして講習会が開催されるようになりました。
享保二年(1717)五月五日より、仲間の井上正臣の家を借受け、講習は恒久的に行なわれるようになりました。 その学び舎は、初め
「老松堂」と呼ばれましたが、後に、三宅石庵によって「含翠堂」と名付けられました。 (老松堂と呼ばれたのは、井上邸の庭には、老松があったからだそうです)

土橋友直のほか六名がそれぞれ、銀五十匁(もんめ)を出し合い、それを基金として、毎年二十~五十匁を寄付して運営資金を積み立てていきました。 その他、親族や友人から資金を調達し、必要経費を除いた資金を、同士に月一分の利息で貸し付け、積み立て利殖を行なっていました。

このような民間有志による運営は例がなく、独自のものでした。

すごすぎます  モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!


後に、含翠堂よりも有名となる、大坂懐徳堂(かいとくどう)は、このビジネスモデルを模したものです。

享保十一年には、四貫目の資金で、井上邸を買い取り、自前の講舎を持ちました。やったね (*^ω^*)ノ彡

含翠堂での講義は、友直が中心となって行なっていましたが、外部から学者を招き、講義を定期的に行なっていました。
講義は、専門的や技術的なものよりも、いかに社会の中で人のあり方を学ぶかに重点が置かれていたそうです。

享保十二年(1727)土橋友直が四十二歳の若さで亡くなり、十五年には、最も親しい指導者であった三宅石庵も亡くなって、一時帰する場所を失ったかのようでしたが、身分や家柄、経済的な格差があったとしても、各自家を守り、人としてのありかたを学び、恩恵と享受、教育と学習という含翠堂精神と、郷民としての自覚、地域社会に根ざした一体化を目指し、復興しました。

享保十七~十八年は大凶作となり、平野郷でも十七年秋の大雨、大風により米作・綿作ともに大打撃を受けたにもかかわらず、年貢の減免はなく、十八年正月時の人口一万人余りの約三分の一が飢餓状態に追い込まれてしまいます。

このとき含翠堂は、十七年から翌年四月まで、総額六貫三百文目を出し、今で言う炊き出しを行なったのです。 この救済金は、享保四年から、同士が相談して、災害非常時に備えて積み立てていたものだったのです。

炊き出しっ ・・・  石原プロのようです・・・

それにしても、この頃からすでに、もしもの時のために、災害積み立てをしていたんですからすごすぎます 

それを困っている人のために使うって カッコよすぎますっヾ(´ε`*)ゝ


この時の、振窮積立金は、全額使い果たしましたが、郷年寄らをはじめ、郷の有力者九十三名、外部の支援者の寄付により、改めて積立金の継続がなされました。

その後、享保十八年には、同士による掛銀制も廃され、自由寄金による運営となり、七名家中心の運営から脱皮して新体制での運営となりました。

その後も、外部からの講師を招聘しながら、明治五年(1,872)学制公布により廃学となるまで、百五十余年間、平野郷で教育活動を行ないました。

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伊藤東涯の講義模様 「摂津名所図会」より

内容は平野区誌より要約

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国道25号線に面したところにある記念碑 昭和六十年(1985) 五月五日 平野戸主会 (やっぱり五月五日) 

よく見ると、書物の形をしているんです 

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民家の角に残されている碑は、大正八年に大阪府が建碑した含翠堂址碑

一度折れて、修復されてあります 

ここがかつての、含翠堂正面だったそうですが、国道建設のため、後ろ側は道路になっているようです・・・ (だから国道25号線のところに碑があるんです)

含翠堂は、大坂周辺に設立された民間教育施設の先駆けであり、優れた活動内容であったのに、大坂懐徳堂よりもあまり知られていないことは残念なことですね。