カテゴリー「模擬原爆」の記事

2012年5月 3日 (木)

大阪に模擬原爆2(詳細編)

以前に、大阪に模擬原爆パンプキン)が投下されたという記事を掲載させていただきましたが、その詳細編です。

2からご覧の方も多いでしょうから、簡単に説明しておきますと、昭和二十年(1945)七月二十六日 午前九時二十六分 大阪市東住吉区田邊本町にあった、料亭「金剛荘」敷地内に米軍が投下した、爆弾が着弾・炸裂したというものです。

大阪府警察局の資料によると

高知附近ヨリ侵入セルB29一機ハ愛媛県東部淡路島北部大阪府ヲ経テ奈良県ニ侵入シ生駒山東北部ニ於テ反転大阪市ニ投弾ノ後大阪湾ヲ南進セリ

投弾状況  大型爆弾一発

被害状況  特殊被害ナシ

昭和二十年七月二十六日 午前九時二十六分 大阪市東住吉区田辺本町 料亭 「金剛荘」 死者四、重症八、軽症七七、行方不明六、全壊二〇三、半壊二一八、罹災者一三〇二 

大阪府警察局

となっています・・・ 

現在  爆心地付近に、記念碑が建立されてあり、7名の方が亡くなられたと刻まれてあります。

1108070347_6

別の資料では、死亡者が10名となっているものもあり、これは、行方不明者を含めた数だと思われます。(つまり、本当は10名の方が亡くなっているということです)

1002070276_4 Ckk748_c20_20_4

白黒画像は、米軍撮影の一部  カラー画像は、昭和49年撮影の航空写真の一部

昭和49年ごろには、阪神高速松原線建設のために立ち退きが始まっていますね

田辺の爆弾孔は、直径約20m 深さ約5mほどだったと言います・・

(一トン爆弾の爆弾孔は、直径約10m 深さ約10mほど)

Untitled3_4

昭和4年の地図の一部  塀で囲まれた敷地が、金剛荘だと思われます

どうして、模擬原爆(パンプキン)を投下する必要があったかですが、その後、広島・長崎に投下されることとなる、原子爆弾投下のための訓練と、弾道特性や様々なデータの収集にありました。

高度9000メートルで投下後、150~155度急反転して退避する必要があり、訓練が何度も繰り返されました。

そのため、日本には50発のパンプキンが投下されました(1つは海上投棄)

リトルボーイとファットマンという、2種類の原爆のうち、大きい方のファットマンの形状と同じもので、同じ重さ、コアの重心位置まで同じという設計やったんです・・・・・

この特殊任務を行なう部隊が、第509混成部隊という部隊でした。

混成部隊というのは、陸海空軍の必要な人員、機材を集めて編成されたのことで、スペシャリスト集団だったと言うわけです。

米本土で訓練後に、マリアナ諸島のテニアン島に配置され、原爆投下用に改装された、B-29が15機配備されてていました。

2からご覧になった方のために、前説が長くなりましたが、大阪に投下されたパンプキンは、その1つやったんですね。

目撃者のお話では、色は薄いグリーンで、胴体に白色で英文字が書かれてあったそうです。

ただ、ネコ三昧は、黄土色に近い薄い黄色系統の色だったと思っています。

青空をバックに見ていたので、光の加減で、薄い緑色に見えたのではと思うのです・・・

爆弾投下後シャァああああー!!!という大きな風切り音がして、どっか~ん!!と地響きがしたそうです。

7月26日は、配給日で、醤油などを求めて並んでいましたが、あたり一面土ぼこりで、真っ白になったそうですワ・・・

料亭「金剛荘」は、かなり広い敷地に、日本庭園があり、人工の瀧や池 池にかかる小橋があったそうです (現在のホテルのような場所でした)

離れがあって、女学生さんが下宿していました・・・

爆撃で、下宿の世話人夫婦が亡くなられ、たまたま風邪で休んでいた、女学生さんが行方不明になっていました・・・・・(ノω)

コンクリート製の門柱と、一部の塀が倒れずに残されていた以外は、木っ端微塵・・・  瓦礫の山やったそうです・・・・

すぐに、憲兵と警察が、縄をはり、付近の立ち入りを禁止してしまいました・・

当時、金剛荘には軍関係者が駐留していて、「それで狙われたんや」と噂されていました・・・ (そんな精密爆撃は出来ない時代でしたが)

軍人たち50人ほどは、26日の朝に出ていたので、難を逃れていました・・

また、爆弾が落ちて、ほんのしばらくの間は、南海平野線の電車は動いていたようです。

爆発時には、上り電車は、隣の駒川町駅を出たところでした。  

田辺駅あたりで、沿線の建物が倒壊して、おそらくこのあたりで不通になったのではないかと思います。

天王寺発の下り電車も、田辺駅付近まで来ていました・・・・

衝撃波が、窓を破り、二階の屋根瓦ごと屋根を破壊していって、二階の屋根に畳が引っかかっていたそうですワ・・・・・

本当は、大阪に模擬原爆を投下したのは、計画されていたものではありませんでした・・

7月26日 本来は、富山の軍需工場を空爆する予定でしたが、天候不順のために、機長判断で、各地に落とされることになったのです・・・

というのも、投下は、目視が厳命されていたために、目標を目視で確認する必要があったのです・・・(本番も、目標に対し、目視が厳命されていました)  

これには理由があって、本番と同じ条件で訓練することと、模擬原爆を、通常兵器としてもテストしていて、効果判定する必要があったからです・・・

もし、天候不順などで、目標変更する場合は、爆撃禁止地域以外の都市(住宅密集地帯)の中心部に、目視で投下するという指令でした。

ちなみに、パンプキン爆弾は、それなりに効果があるものの、コストが合わないということで、正式採用はされませんでしたぁ・・

それでも、1000個のパンプキンが発注されて、最終的には486個調達されていたんです・・・ (さすが アメリカっ 規模が桁外れです)

日本が、ポツダム宣言受諾後も、テニアン島には、66個残されていて、全て海中投棄されました・・・・

2009年7月23日の毎日新聞に、田辺の模擬原爆投下後の写真が発見されたという記事が、掲載されていました。

Ab9d5c75

この新聞記事自体の画像も、借り物です・・・ (;´`A`` 

爆弾孔は撮影不許可やったから、孔を背にして、南海平野線側を撮影したと思われます

Img_983394_12638659_0

新聞にも掲載されていた画像  ネット上からお借りしました  

米軍撮影のパンプキン(信管部は砂避けのためか、新聞紙か何かを、テープで巻いてるように見えますね)

ということで、ネコ三昧cat 脳内イメージイラストです

1205020001 1205020016

実際とはちょっと違うけれど、「こんな雰囲気やったんや」 というのが伝わればエエです。

つづく

2011年8月 8日 (月)

大阪に模擬原爆

1945年(昭和20年)8月6日に、広島に、8月9日には、長崎に原子爆弾が投下され、多くの方々が亡くなられました。

米軍は、原爆投下前に、1万ポンド軽筒爆弾という爆弾を使い、実際に実地シュミレーションを行なっていました。(模擬爆弾で爆撃という演習)

広島に投下されたものは、高濃縮ウラン型で、長崎に投下されたものは、プルトニウム型、と違いはありましたが、長崎型のファットマンと同形状で、同質量(約4,8トン)の「パンプキン」と呼ばれていた、橙色に塗られた模擬原爆を使い、日本各地を爆撃していました。

500kg爆弾や、焼夷弾などの通常の爆弾より、かなり大きいので、投下装置を別装備された、B-29によって、日本各地に50発(1発は海上投棄)投下されました。

なぜ模擬爆弾が必要だったのかは、高度9千メートルで投下後に、原爆風と放射能から退避するために、150~155度の急旋回が必要とされていたので、乗員の訓練が必要だったのと、弾道の特性や、気象条件による慣性特性など、本番に向けての完熟データを取る必要があったからです。(高度何フィートで、火の玉になったら一番効果的だというデータがあって、高度・飛行速度・実際の投下までの手順や時間や、一番安全に退避できるかなど・・・)

前置きはこのくらいにして・・・

大阪にも、この模擬原爆が、投下されていました。

1945年7月26日 午前9時26分 大阪市東住吉区田邊本町 料亭金剛荘あたりに着弾・爆発しました・・・

この爆撃で、7名死亡、重軽傷者73名、倒壊家屋485戸、被災者1645人の被害が出ました。

東住吉区誌には、「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」とあり、投下して急反転したのではなく、反転して後に投下したとあります・・・

原爆投下候補地の京都市、広島市、新潟市、小倉市の中心部は、原爆の効果判定が出来なくなると言う理由で、爆撃はされることはありませんでした。

大阪に投下された模擬原爆は、元々は富山の軍需施設に投下される予定でしたが、天候不順により、各地に投下されたのです。 

あくまで想像の域ですが、その周辺都市は可(つまり機長判断でどこでも可)となっていたために、京阪神の施設を目標で飛行したものの、資料が無いために、見つけられず、帰りがけの駄賃とばかりに、市内平坦部に投下して行ったのではないでしょうか? (爆撃を禁じられていた都市中心部以外ならどこでもよかったんです)

この爆撃演習は、爆撃手による、目視が厳命されていたので、攻撃すべき目標物が確認されないと、その目標に投下することはできません。

田邊への爆撃は、機長判断で、町の中央部に投下したものが、たまたま田邊地区に着弾したということが考えられます (それらしき目標物も周辺には全くありませんし、どこかの目標を目指してしていたのなら、奈良県に行くことなく、とっとと投下して、急旋回するでしょうから)

現在、爆心地のそばに、模擬原爆の碑が御遺族の手で建てられています。

1108070332 1002070273 1108070329 1002070281

色々な模擬原爆の記事が張られている掲示板と、道路反対側から見た碑の場所

1108070350 1108070358 1108070336 1108070337 1108070338 1108070339 1108070340 1108070341 1108070342 1002070279

(最後の田辺小学校の被災状況の図は、以前に撮影のため、現在は掲示板にありません)

1002070277 Photo

パンプキン爆弾と、長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾(ファットマン・模型)(模型なので、レーダーのアンテナや、弾頭部の触発信管がありません)

ファットマン画像はウキペディアより

B29_in_flight Photo_2

B-29 と アメリカ空軍博物館の模型

B-29画像はウキペディアより 模型はネットより拝借させていただきました(すいません)

(B-29画像は、原爆投下用機ではなく、通常装備のものですが、尾翼マーク・テイルコードや、ビクターナンバーが無いので、軍が?、写真修正したものかもしれません)

(長崎原爆資料館にも原爆模型が展示されてあります)

1002070276 2_m85187194811

左は、田邊本町に模擬原爆が投下爆発した様子(下の四角いのが田辺小学校)

(円形の衝撃波と爆煙、それと爆煙の影が大きく見えてます・・・)

高高度からこんなの撮ってたんですね・・・ すごい技術力です・・・sweat02

(後続の観測機から撮影されたものです)

右は戦後、1948年11月撮影の航空写真の一部を、だいたいの縮尺を合わせて、切り取りしました・・ 3年後ですから、まだ爆心地あたりは、ほとんど何も建っていませんね・・

Photo_3 Photo_4

長崎浦上地区の原爆投下前と投下後の画像です

どちらの画像もウキペディアより

大阪・田邊に落とされた原爆が、もし本当の原子爆弾だったら、大阪は壊滅していたでしょう・・・ 

模擬原爆だったとしても、あと1~2秒違っていたら、平野や、今川などの別の場所に落ちていたでしょう・・・

今回は、平野郷とは、あまり関係のない記事sign02でしたが、平野郷も、大阪ですから、いいように解釈してください・・ 

┐(´д`)┌ sweat01 ヤレヤレ

40年以上前に、ネコ三昧も、おじいさんから、田邊に1トン爆弾が料亭に落ちて、ようけ死んで、大きな穴が空いたと聞いてはいました・・・

まだ子供でしたから、その時は「ふ~ん」で終わりました・・・ケド

その頃はまだ、模擬爆弾の存在も世に知らされず、大きな爆弾=1トン爆弾と言われていました・・ (実際は5トンでしたが)

何でも、模擬原爆にも2種類あって、中のTNT火薬の量と、コンクリートなどの詰め物の量が違ったそうです・・・ 爆弾が落ちた周辺の家の屋根には、コンクリートの破片で、穴が開いたりする被害が多かったそうです。

また、昭和20年7月26日午前9時26分には、空襲警戒警報が出されていましたが、たった1機でしかも高高度ですから、なんや大したことあらへんとたかをくくっていたそうです・・・ (今回の津波被害といい、油断はいけませんね)

このころは、迎撃する航空機もほとんど無く、高射砲があっても、弾も無かったし、届かなかったのでしょうね・・・ (9000m上空やもん)

このあたりでは、生野のロート製薬のそばの公園や、大鉄デパート(今のあべの近鉄)、長居公園なんかにも高射砲陣地があったように聞いたことがあります・・・

ちなみに、何でパンプキン爆弾なんかと言うと、形が、かぼちゃのようにずんぐりとしていて、黄色っぽい色(テスト用だから)だということと、中身は種ばっかしで、食べられもしない、お化けかぼちゃのように、能無し・バカ爆弾という、敵に対する蔑視ような意味合いもあったんでしょうね

終わりに

多くの方々が、原爆をはじめ、戦争で亡くなられました

ご冥福をお祈りいたします

そして今回の地震・津波被害に遭われた方々も、一日も早い復興をお祈りします

こうして生かして頂いていることに、感謝いたします ありがとうございます tulip

記事内容が多いんで大阪に模擬原爆2に 

つづく